犬養毅先生

犬養毅先生

平成21年7月20日の朝十時からNHKで「京都葵祭り 千年続く神事のすべて」という番組がありました。
全国放送だったかと思うので、見られた方も多いでしょう。上賀茂神社と下賀茂神社は賀茂一族の神社です。葵祭りには賀茂族の皆さんが千年前からの神事を昔と何変わらないように粛々と行っています。

上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した鴨県主の後裔であります。賀茂県主・葛野県主・葛野鴨県主などとも文献に記されています。しかし賀茂族の故郷は奈良県吉野郡です。神武天皇の東征に際し、熊野路を先導して功績をあげたという八咫烏(やたがらす)の伝説があります。この八咫烏こそ賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。これが鴨県主の遠祖であると伝承されています。
鴨県主は大化以前から京都の賀茂神社の神職でした。葵紋を用いる神社では、洛西の松尾大社、近江の日吉大社などが知られています。そして大阪市の鶴見神社です。賀茂族の本家は葛城市の高鴨神社といわれていますが、本家は今でも五條市天辻・辻堂(旧吉野郡大塔村)にあります竹原家・花谷家です。高鴨神社の宮司家とは鬼族の五鬼助家とは親戚になるので花谷家とは親戚になります。また葛城族の本家、笛吹神社の宮司家とも親戚になります。毎年、葵祭には賀茂族の一人として参列しています。

今日の題目は桃太郎の伝説です。鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で,一説によると鎌倉時代まで遡(さかのぼ)ると言われています。主人公のモデルとしては,古事記にも登場する神話上の人物,吉備津彦命(きびつひこのみこと)がいます。日本全国で桃太郎の話の舞台となっているところがあり,吉備地域(岡山県総社市を中心とする地域)は特に有名です。

 吉備津彦命といわれる桃太朗のお供にイヌ・サル・キジも登場し旅の途中で一匹ずつ仲間になります。桃太郎伝説を除き、童話の桃太郎に従って言えば、基本的に「きびだんご」をあげることで仲間になります。彼らにはいろいろな能力があり桃太郎をサポートします。
イヌ は、特技の嗅覚で近辺に他のお供がいないかどうかの調査や、土を掘ってガラクタから宝物を発掘しますと。戦闘中は噛むことで攻撃に参加しています。
サルは、 特技の舟を漕いだり、「戦闘中は引っ掻くことで攻撃に参加しています。
キジ は、特技の偵察で、敵と遭遇すること無く周りの様子を調べられます。戦闘中はつつくことで攻撃に参加し、ときどき体力回復の「きんたんの術」を桃太郎たちにかけてくることもあります。

この伝説は本当にあったことを日本人の多くは知りません。

イヌは犬飼部(いぬつかいべ)で犬養=犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)=犬養毅の先祖にあたります。

キジは鳥飼部(とりつかいべ)=楽々森彦命(ささきもりひこのみこと)=鳥飼家(とりがいけ)の先祖・鳥井家の先祖

サルは猿飼部(さるつかいべ)=留玉臣命(とめたまのおみのみこと)、猿田彦(さるたひこ)=山本家の先祖

以上、三人の桃太郎(吉備津彦)の子分ですが、この中で一番由緒の正しい犬飼家の犬養家です。有名な子孫は犬養毅先生です。

昭和7年(1932)5月15日日曜日。近代日本の大きな転換点となったこの日はよく晴れた初夏の休日で、犬養首相もくつろいだ休日を過ごしておられました。
 夕方の5時半頃、突如海軍青年将校に率いられた一団が首相官邸を襲撃しました。警護の「お逃げください」の声に耳を貸さず、犬養は「会って話せば分かる」と、一団を客間に案内しました。殺気立つ将校らに囲まれながらも犬養はまったく動じず、「話を聞こう」と毅然と応対されました。しかしその甲斐はなく、「問答無用、撃てッ」の声と同時に銃声が鳴り響き、犬養毅先生は倒れました。世に言う五・一五事件です
 乱入者が去った後、血まみれになりながらも犬養毅先生は「今の若い者を呼んで来い。話して聞かせる」と平静を失っておられませんでした。しかしその後は次第に衰弱し、午後11時26分、息を引き取られました。78歳でした。
 
犬養首相の死により、8年間続いた「憲政の常道(政党内閣)」は終わりを告げ、以後、軍部の政治介入がいっそう進むことになります。昭和天皇は犬養毅先生の暗殺に激怒されました。

犬養毅先生を暗殺したうちの一人の青年将校三上卓氏は昭和37年、戦後初のクーテダーである三無事件を起こされました。私の子供時代からの思想的な師匠は黒龍会の内田良平先生の弟子に当たりますので、犬養毅先生、三上卓氏とも交流がありました。「どちらの言い分も正しいが、暗殺は認められない、天誅を加える人物ではない」と言い切っておられました。昭和天皇は平和主義を心情とされておられ、これで軍部の台頭を懸念された、と云うことをいわれております。
犬養毅先生は軍部を押さえるためにいろいろな苦心をされた、と岸信介先生に聞かされていました。特に麻生元総理の祖父に当たる吉田茂先生は犬養毅先生の心労は想像を絶するもであったと言われています。
犬養毅先生は大アジア主義者でした。、軍部の圧力を封じ込めて国際協調路線を進めアジア合衆国の建設の実現の夢は、当時の日本の進むべき道を知っておられたと思います。アジア諸国の独立させヨーロッパ共同体のようなアジア経済圏を確立したかったのです。ただ桃太朗のような親分が見つからなかったことが悲劇を生む結果となったと思います。

先代は青年日本の歌(昭和維新の歌)を作詞した三上卓氏が大嫌いで、その後の二・二六事件も否定的でした。そのことがあり、私が三島由紀夫先生や森田必勝さんにと交流することが嫌いであったのです。ラジカルよりリベラルの方が日本を救う方法であると考えていたのです。しかしながら先代は「お前は神職を継ぐより賀茂族の本家に当たるので戦闘的な性格は仕方がない」ということで諦めていました。

ところで気取らない人柄の犬養毅先生の墓は近代史に登場する多くの著名人が眠る青山霊園の中でも、首相経験者(加藤友三郎、加藤高明、浜口雄幸、吉田茂ら)や政治家、軍人の墓が多い区画にあります。さすがに歴史に名を残した人物だけあって、大きな墓石に位階勲等、爵位や職名が刻まれている墓が多いのですが、犬養の墓にはただ「犬養毅之墓」とだけ記されてあり、知らない人が見れば普通の人の墓にしか見えません。身なりに無頓着で気取らない性格だった生前の犬養木堂が偲ばれます。これも犬飼部(いぬつかいべ)の遺伝子がそのようにさせているのでしょう。


 

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