大田田根子について

大田田根子について

ある人から大田田根子について、いつも質問されますので、今回は大田田根子について記述します。一般の人はかなり難しいので読まれても理解できないと思います。
『日本書紀』崇神天皇七年八月の条で、大田田根子(おおたたねこ)に大物主の大神を祀らせた話が記されています。大田田根子は、茅渟の県(ちぬのあがた。和泉の国一帯の古称です)の「陶邑」(すえむら)の人です。

「陶邑」は和泉の国大鳥郡陶器荘の地で、今の大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域です。現在でいえば、堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市の一帯です。このあたりから多数の須恵器が出土していることから、古墳時代以降、須恵器生産の中心地として最大規模であったことは証明されています。陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)は日本三大古窯の一つです。古墳時代に朝鮮半島から導入された窯を使って1000度以上の高温で須恵器を初めて継続して生産した所と、言われています。

大田田根子の父は大物主の大神、母は活玉依毘売(いくたまよりびめ)で陶津耳(すえつみみ)の娘であります。陶津耳は陶という地名または陶器をつくる職業集団のリーダーという意味であると思います。

つまり、「陶邑」では崇神天皇の時代にすでに須恵器が作られていたと考えてもよいでしょう。崇神天皇は4世紀の半ばから後半に活躍したと考えられることから、日本の一部の地域では須恵器は4世紀の後半に作られていたと判断できます。

崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされています。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたと記載があります。
その結果、疫病が収まり、国内はようやく鎮まり、五穀がよく稔るようになったということです。その大田田根子は現在、二の鳥居の左側を入ったところにある若宮社で祭神として祀られています。

しかし記紀に記されるこうした伝承はどこまで本当のことを伝えているか不明です。そもそも大物主神が桜井市三輪山に鎮座するに至った経緯自体が、あまりにも不自然であると考えます。大己貴神(大国主神の別名)の国造りの神話は、本来出雲地方で語り伝えられてきた伝承です。
自分を三輪山に祀ればその国造りに協力するとした大物主神の申し出は、記紀編纂時点で出雲地方を始めとする各地の伝承をうまく整理して系統立てて神話としてまとめたねとしか思えないのです。

私の考えでは、天孫族が、この地に侵入してきたとき、三輪山をご神体とする先住の氏族がその麓に住んでいたが、天孫族はその祭祀権を取り上げてしまったと思います。その結果、天孫族が先住民と融合ができず、うまく治めることができなかった、と考えます。そこで、いったん取り上げた祭祀権を返還して、出雲族の大田田根子に大物主神を祀らせることにした、というのが本当の話ではないかと思います。

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中澤 正信

大田田根子を調べていて、貴論文に出会いました。もしご存知だったら以下のことをお教えいただけませんでしょうか。

1、三輪氏の祖、大田田根子の直系の子孫は大神神社の神主家になったと思われますが、それを伝える文献はありますか?

2、子孫および末裔は「大、太、多、意宇」の姓を名乗ったのでしょうか?

3、上と関連しますが、古事記の編纂者「太安万侶」は大田田根子の末裔に当たりますか?

突然、ぶしつけな質問をして申し訳ありません。もしご存知でしたら、よろしくお願いします。

by 中澤 正信 (2011-07-21 14:12) 

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