井上成美海軍大将の生涯

井上成美海軍大将の生涯

団塊の世代以降で井上成美海軍大将のご存知の方は少ないと思います。井上成美海軍大将は明治22年仙台に生まれています。 日露戦争直後の明治39年、海軍兵学校に入学。42年卒業。 同期生181名中9番で入学し2番で卒業。昭和20年5月最後 の海軍大将となられました。井上成美海軍大将は、米内光政、山本五十六に続く軍政=条約派の一人として、 「剃刀」の異名をもっていました。日独伊三国同盟の締結や日米開戦への動きには頑強な抵抗を示し、米内光政や山本五十六と並んで、「海軍左派三羽烏」と称された人物です。
 昭和16年1月、航空本部長井上中将は第5次軍備補充計画を批判し、 「新軍備計画論」を執筆し、及川古志郎海相に提出しています。 その中で井上は、従来の大艦巨砲主義に対し、 海軍の空軍化を強く主張し、日米戦争では、艦隊決戦にはならず、 航空基地争奪の攻防戦になることを的確に予測していました。

また、米海軍潜水艦による海上封鎖を恐れてもいました。 井上は、海軍軍備の要点として、航空兵力による制空権の確保、 潜水艦による通商破壊、護衛用水上艦艇の増強、相当有力なる機 動水上兵力の整備を強調し、大鑑巨砲主義を痛烈に批判しました。 井上は意見書を提出し、時の海軍大臣及川古志郎に対し 「海軍はバカバカしいから辞めます」の一言を残した、と言われています。

昭和16年12月8日に、カロリン諸島の中心であるトラック島において、第四艦隊旗艦「鹿島」艦上にて、「トラトラトラ」を傍受した際、通信参謀である飯田秀雄中佐が電報を届けた。このとき飯田は「おめでとうございます」と言ったのだが、井上からは「何がめでたいだバカヤロー」と物凄い剣幕で怒鳴られたといいます。飯田は、そのとき何故自分が怒鳴られたのかわからなかったが、本土に帰還して焼け野原の東京を見てはじめて井上の「バカヤロー」の意味を理解したという。

井上成美は、昭和17年10月には山本五十六連合艦隊司令長官の命令により、海軍兵学校校長、昭和20年5月、海軍次官を務め、帝国海軍最後の大将に昇任しました。井上が海軍兵学校校長に在任していた時、英語が敵性語として扱われた時節にもかかわらず、兵学校での英語教育が続行されました。「英語ができない海軍士官など要らない」というのが、井上の意向であった、と言われています。

大東亜戦争末期、海軍兵学校の校長をしていた井上成美中将は、 兵学校の生徒に軍事学よりは普通学を重点において指導しました。 その理由は敗戦を既に予知し、終戦工作を準備していたものと思われています。 連合艦隊は戦う度に敗れて勢力を減少し、昭和20年4月7日 の戦艦『大和』の沈没で、日本海軍は壊滅状態になりました。 井上中将の思惑は、今更軍事学など無用だと思ったのであろうが、 元々負ける戦いを仕組んだ集団の一員としては、終戦工作に尽力 を上げ、積極的に軍隊解体に力を尽くした方がベストである、という考えが、海軍次官・大将に昇任させたのです。大将に進級した際は「負ケ戦 大将ダケハ 矢張リ出来」と皮肉った川柳を詠んで米内海相に披露し、「後世までの笑いものですよ」と語ったといわれています。

井上成美海軍大将は何としても本土決戦を避け、一億玉砕を避けねばならなかったのです。
双方が決戦を行えばいくら優勢のアメリカ軍でも無傷では済まされない。多くの人命が失われ、幾多の血を流さなければならなくなります。 彼は恐らくアメリカ政府の動向をこの時、既に何らかの手だてで入手していたものと思われます。 やがてアメリカによる占領政策が開始されるであろうという推測をしていた節があります。

戦争が終わると、亡き妻のために建てた横須賀市長井の別宅に夫を亡くした娘と孫と一緒に隠棲しておられました。時をほぼ同じくして、生計を立てるための方策を考えていたところ、自宅近くにある勧明寺の住職から「英語を教えてはどうか」と勧められたことをきっかけに、終戦の年の10月から近所の子供に英語を教えるようになり、井上もそれが楽しみになっていました。

井上成美海軍大将らしさは教え方に現れています。「井上塾」では、英語だけでなく靴の脱ぎ方からテーブルマナー、レディーファーストの精神まで授業のうちに入っておりました。生活は極貧状態であまりにも貧乏を極めた生活に見ていられなくなった兵学校時代の教え子たちが提案した資金援助も、最初は丁寧に辞退していたが、教え子の一人の深田秀明元中尉の「子供が立派に成長して小遣いを持って訪ねてきたのに、それを受け取らない親父がどこにいますか」という一言に心を動かされ、好意を受け取るようになった、と話しがあります。深田は後に井上の喜寿の祝いを自分の会社のビルで行い、井上の希望で料理も酒もない質素なお祝いであったが、深田はイタリア駐在時代に井上が作った自身のブロンズ像を託されています。

毎年8月15日には、1日茶以外は摂らずに絶食し、軍帽を被り一人端座して遠い海を眺めることを常としていた、と言われています。終戦以後は贖罪のため、ほとんど人前に出なかったことから、「沈黙の提督」とも呼ばれています。
昭和50年12月15日午後5時過ぎに、老衰で死去。86歳没

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