大津皇子と私

大津皇子と私
大阪府と奈良県の県境にまたがる山に二上山があります。関西地方のハイキングコースの一つに数えられます。私も随分と、二上山に登らせてもらいました。頂上に行くまでに飛鳥で有名な石舞台の石もこの山のふもとで加工されました。頂上には悲劇の皇子大津皇子の墓があります。何とさみしい墓と感じられるでしょう。「万葉集」巻3・416に次の歌があります。

百(もも)伝ふ、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲(くも)隠(かく)りなむ

意味は、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を見ることも今日までか。私は、もう死ななくてはならないのだ、という歌です。大津皇子が死罪と決められた時、磐余の池の堤で、泣く泣く作った歌であります。謀反の疑いで自害させられる直前に詠んだ歌でしょう。

大津皇子は天武天皇と鵜野皇女(うののひめみこ)(後の持統天皇)との間に生まれた草壁皇子(くさかべのみこ)とともに皇位承継の有力な候補者でありました。草壁皇子は皇太子に立ったがすぐれた人物である大津皇子の存在に鵜野皇女はいつも不安を抱いていました。そんな中で天武天皇の死後一ケ月も経たないうちに大津皇子は謀叛の罪を疑われて処刑されることになりました。自頸(じけい)を強いられる直前に詠んだとされる辞世の歌です。このとき皇子は24歳でした。

大津皇子は前述したように鵜野皇女や草壁皇子を中心とする勢力によって政治的に追いつめられるなかで、伊勢神宮の斎宮をつとめる姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)を訪ねられます。信頼する姉と会いたかったのでしょう。姉と会って自分の胸中を語りたかったのでしょう。姉は弟のおかれている立場を理解し、大和へ帰すときの歌が11首あります。姉の大伯皇女は二度と会うことができないことを知っていたのでしょう。
   
わが背子(せこ)を大和へ遣(や)ると さ夜(よ)ふけて暁露(あかときつゆ)に わが立ち濡れし
(巻ニ・一〇五)

意味は、わが弟を大和へ帰そうと、見送ってたたずんでいると、夜は更けて、未明の露に私は濡れてしまったことである。
 
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ                 
(巻ニ・一〇六)

意味は、二人で行ってもものさびしくて、行き過ぎがたい秋の山を、今ごろはどのようにして弟は一人で越えていることであろうか。

弟を、愛をもって気遣う姉の心情が歌われて余りあるものがあります。大津皇子は葛城の二上山に埋葬されます。姉の大伯皇女は哀しみ傷んで次の二首の歌があります。

うつそみの人なる我(あれ)や明日(あす)よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む     
(巻二・一六五)
  
意味は、すでに弟は幽世(かくりよ)にいる。でも現世(うつしよ)の人間である私はあきらめきれない。明日からはせめてあの二上山を弟と思って眺めよう、というものです。

磯の上に生(お)ふるあしびを手折(たお)らめど 見すべき君がありとはいはなくに        
(巻二・一六六)

意味は、岩のほとり咲くアシビの花を手折って弟に見せようと思うけれども、見せようとするその人は、もうこの世にいるとは誰もいわないことだ、という歌です。

「万葉集」の時代、血を分けた兄弟・弟を弟世(いろせ)といいます。それを、二上山を弟と思って眺めようというのですから、実に愛情のこもった兄弟愛、そして悲痛な歌をうたっています。私も、決してお互いが憎しみあって兄弟げんかをしているのではないのですが、ある事情があって姉と絶縁しています。私も姉のことをいつまでも信頼し、何かあれば力になるつもりです。しかし、それ以上に姉はいつでも体の弱い私を心配しています。絶縁しているので会うことは許されません。私は弟を想う姉の辛い別離の心境が痛いほどわかります。そして大津皇子と自分が重なり、姉の大伯皇女の歌を詠むたびに、その後の悲劇を物語るかのような暗い影を感じて生きています。



  


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

神道のお墓神社本庁の役割について ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。