祈年祭について

祈年祭について
祈年祭(きねんさい、としごいのまつり)は、毎年2月に行われ、一年の五穀豊穣などを祈る神道の祭祀です。一般に11月の新嘗祭と対になる祭祀とされているが、皇室祭祀令において、祈年祭は小祭、新嘗祭は大祭と規定されていました。

「祈る」「年」の「祭」と書いて「祈年祭」、「祈念」という字を書いて(連想して)しまいがちですが、「年」という字を辞書でひいていただきますと3~4番目の意味に「穀物・稲」といったような意味が出てきます。そのことから祈年祭の「年」つまり「トシ」は稲の稔りを意味します。

つまり祈年祭は稲を主体とする五穀を初め、すべての野菜などを含め人間の食物全体の豊饒を祈るまつりなのです。秋には豊作の内に収穫の時期を迎えられますように、とお祈りする祭が「祈年祭」です。

ところで祈年祭は元々、律令国家の恒例祭祀の一つであり、7世紀後半の天武天皇の時代にはすでに行われていた記録があります。日本古来の春の農耕儀礼に中国の大祀祈殻の要素を取り入れて、律令国家祭祀として成立したものと考えられています。当初は「延喜式神名帳」記載の全ての神社(3132座)が祈願の対象であったのですが、平安時代に入ると祭儀が形骸化し、神祇官の内部でのみ行われる祭祀となってしまいました。

平安時代中頃になると、天照大御神を主に祀る祭祀であるという認識が変化しはじめ、院政期にはその傾向がさらに強くなり、祈年祭は天照大御神を奉祀する天皇の祭祀として厳修されるようになりました。13世紀初め、鎌倉時代初頭の順徳天皇の『禁秘抄』では、祈年祭は伊勢神宮関係の祭祀であると明記されています。

室町時代後半の戦乱期には、他の祭祀と同様に宮中での祈年祭も廃絶し、神祇官の長官を世襲してきた白川家が行うようになりました。江戸時代に入り、元禄年間に宮中での祈年祭の復興が企画されたが為らず、明治時代の神祇官復興に至ってようやく再開された歴史があります。祈年祭は再び重要な国家祭祀と位置づけられ、明治2年(1869年)からは、宮中および全国の官国幣社で「大祭」として祈年祭が行われるようになった。官国幣社以外の民社でも行われたのです。鶴見神社でも毎年2月17日の午前8時に祈年祭を執行しています。

と、ここまでが2月17日の午後7時、敬神婦人会主催の勉強会でお話しする内容の一部です。今回は午後7時から婦人会の会員の皆さんに参列のもとに、祈年祭を執行いたします。その後、上記の内容で祈年祭について講義します。




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