中野正剛について

中野正剛について
新尊王攘夷派と称する人たちは世間で言うところの高学歴者が多くおります。その中でも早稲田大学出身者はかなりいます。不思議なことに慶応大学はほとんどいません。自決された森田必勝さんも早稲田大学でした。東亜連盟に属しているお方も早稲田大学出身者が多いですね。

平成12年の早稲田大卒業式の際に、当時の総長奥島孝康は式辞の中で、玄洋社の系譜に連なる早大出身の政治家で中野正剛(なかのせいごう)を取り上げ、約1万人の卒業生に語りかけました。 

徒党を組んだり、付和雷同したり、大会社にぶら下がったり、権力者に擦り寄ったりするのではなく、各自が個を強め、孤立を恐れず、自信を持って21世紀の時代の扉をけ破ってください。

奥島総長が引用したのは「中野正剛の歴史的演説」と呼ばれているものからです。それは大東亜戦争が始まって、約1年後の昭和17年(1942)11月10日、早大の大隈講堂で開かれた創立60周年の記念講演として行われました。2時間半に及ぶ演説内容には東條英機内閣への痛烈な批判が込められていました。簡単に演説内容を紹介しますと、

政治は国民に向かって命令するだけで足りるものではない。政治の任務は、国民をして自発的に奮起せしむる手段を講ずるのにある。施設し、命令し、権力を揮(ふる)い、それで結果が思うとおりでないならばその当事者が自ら省みて、その理念、制度、施設、命令、すべてを再検し、国民の精神が躍動するように考え直すことが現下の急務である。

 諸君は大学生である。諸君のみ深く思い、正しく判断することが出来る。今や日本全国の新聞は統制されて居る。言論報道は配給されつつある。されど学術まで配給される必要はない。早稲田大学も配給のレクチュアを待たずして、自ら自律的に非常時に奉仕すべきである。頭の悪い連中は、偉い地位に居る人が言いさえすれば、それが権威であると思って拍手する。諸君は権威者を先烈の間に求め得る。古今東西の歴史の上に求め得る。国家が興亡の岐路にある時、大学生は国家に奉仕すべく国家の寄生虫となってはならぬ。この間、吉田松陰の命日に役人さんが放送して居った。大学生は吉田松陰の話を役人さんに聴くだけで満足してはならぬ。吉田松陰の全集でも読んだらどうだ。徳富さんの書いたものなども研究の手引きになる。

 諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。役人、準役人にはなりなさるな。歴史の動向と取り組みなさい。「天下一人を以て興る」。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。革新は現存秩序の是正を意味する。現存秩序の番人として衣食して居ては、革新の選手となることは出来ぬ。諸君を偉大にすべき環境は、諸君の現実生活に働きかけて居る。諸君は現実生活の体験に浸りて、諸君が胸底の一大至誠を喚(よ)び起しなさい。諸君の中には至誠がある。至誠です。諸君の肉身は祖先の影を宿し、祖先の魂を蔵して居る。諸君は祖先を反映して居る。諸君には素質がある。その素質は環境に恵まれて居る。天下一人を以て興る。興らざるは努力せざるにある。

 天下悉く眠って居るなら諸君、起きようではないか。この切迫せる世の中に、眠って居るのも、うすら眠りであろう。諸君が起ちて直ちに暁鐘を撞けば、みな醒めることは必定である。天下は迷わんとする。言論の身では勢を制することは出来ぬ。誰かが真剣に起ちあがると、天下はその一人に率いられる。諸君みな立てば諸君は日本の正気を分担するのである。日本の巨舶は怒涛の中に漂っている。便乗主義者を満載して居ては危険である。諸君は自己に醒めよ。天下一人を以て興れ。これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

この竹下登元首相は、当時この演説を聴いて政治家への道を志したそうです。私の先代も中野正剛を尊敬し、東條英機の命令で憲兵が中野正剛の自宅で「子供の命を助けて欲しいのならこの場で自殺しろ」といって無理やり自殺に追い込んだ、と言っていました。

東條内閣の危険性を指摘し、批判する中野正剛に魅力を感じ、その生涯を執筆し出版する予定にしていたので史料を集めていました。ところが「幕末入門書・志士たちの死生観」を出版した直後から、出版業界が不況になり、この話しは飛んでしまいました。

中野正剛、この人物は男の中の男です。「人生劇場」の著、尾崎士郎も早稲田出身、私の周囲の早稲田出身者も義理を重んずる男です。三島由紀夫先生と自決した森田必勝さんも早稲田、今も懇意にしている元楯の会の連中も早稲田出身、亡くなった元楯の会の1期生阿部勉さんも早稲田、皇學館大学の学生の頃からお世話になった故藤波孝生衆議院議員も早稲田、このように私の周囲は早稲田マンが多いのです。私には、時流に抗して命を張れる、そんな男のイメージが早稲田マンにあります。母校の皇學館大学にはない校風が大好きです。

中野正剛は明治19年(1886)2月12日、旧福岡藩士中野泰次郎とトラの長男として福岡県福岡市西湊町に生を受けました。福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学します。友人に修猷館で知り合って早稲田大学まで一緒だったのが、緒方竹虎です。

中野正剛は苦学生のため、学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿していました。この『日本及日本人』は私の友人の維新政党元代表魚谷哲央さんが勤務していたところです。そこで中野正剛は大アジア主義で玄洋社を主宰する頭山満先生と知り合い影響を受けるのです。

早稲田大学卒業後、明治43年ごろに朝日新聞に入社します。朝日新聞時代には、「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価をうけます。大正2年(1913)に三宅雪嶺の娘多美子と結婚します。仲人は、頭山満先生だと聞いています。

大正5年(1916)に朝日新聞を退職し、東方時論社に移り社長に就任します。翌年には、早くも衆議院議員総選挙に立候補しますが、落選。当時の日本外交を痛烈に批判した論説文「講和会議を目撃して」が国民の間で高い評価を受け、その結果大正9年(1920)の総選挙で衆議院議員に当選します。以後、8回連続当選を果たします。

昭和4年(1929)浜口内閣の逓信政務次官となります。順調に見えた中野正剛も大正15年、左足を切断、それ以後義足で歩行が不自由になりました。昭和6年、長男が穂高岳で遭難死、昭和9年に夫人、昭和10年に次男が相次いで病死し悲しみの連続が襲いました。

中野正剛は昭和6年の満州事変を契機として政治姿勢が変化します。それは政党政治の無力と腐敗を見るにつけ、 全体主義に傾いて行きます。 しかしながら、一貫して軍部による軍事政治・言論統制・官僚主義的な全体主義には反対でした。彼が目指したのは軍人による政治ではなく、政治家による政治であり外交であり、当時の日本の危機を救うのは「亜細亜は一つ」の精神で蒋介石の国民党と和解し、欧米列国からの亜細亜開放でした。

その後、民政党を脱党し国民同盟を結成します。さらに昭和11年(1936)には、東則正と東方会を結成し自ら総裁となりました。

昭和12年(1937)から昭和13年(1938)にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ・ヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合っています。当時の彼は、ムッソリーニ・ヒトラーの二人は国民に圧倒的な支持を受けた偉大な政治家だと認識していたのですが独ソ開戦後は評価を変えています。

大東亜戦争が始まりますと、戦争早期収拾のため、東條内閣打倒 運動の中心となって活動します。東條内閣下での昭和17年の選挙では反東條派の政治家だったため非推薦でしたが最高点で当選します。 国民の支持を得た彼は、自らが組織した東方会を率いて東条内閣打倒の急先鋒となって行くのです。

昭和18年、中野正剛は朝日新聞に「戦時宰相論」を記載します。その記事が決定的に東條英機を激怒させることになりました。 同年、倒閣企図の理由で逮捕されます。しかし、国会議員のため釈放され、その直後に自宅で切腹自殺を憲兵に強要されました。軍国主義を糾弾し、時代の刷新を願いながらも果たせず、壮絶な死をとげた中野正剛、男の中の男です。

それも彼が昭和17年11月10日、早大の大隈講堂で開かれた創立60周年の記念講演を行ったほぼ1年後の昭和18年10月21日、倒閣を策した容疑で連行され、10月27日、東京・代々木の自宅で自決しています。

 私が早稲田マンを大好きな理由の一つに、日本が戦争協力体制一色にぬりつぶされていたころに東條英機に生命をかけて弓を引き、弾圧を覚悟の論陣を構えた中野正剛のような人物、森田必勝さんを知っているからです。福岡県中央区にある鳥飼八幡宮の境内の一角に、大正から昭和にかけての政治家・中野正剛の銅像が、演説姿で威風堂々と立っています。

私が大好きな村田英雄の「人生劇場」という歌があります。知り合いの早稲田マンから、早稲田には「人生劇場」に4番・5番の歌詞があり、歌ってもらうことがありました。

四.
端役者の 俺ではあるが
早稲田に学んで 波風受けて
行くぞ男の この花道を
人生劇場 いざ序幕
五.
早稲田なりゃこそ 一目でわかる
辛い浮き世も 楽しく生きる
バカな奴だと 笑わば笑え
他人にゃ言えない こころいき




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