「桜」とは「再生」の意味

「桜」とは「再生」の意味
しばらくブログを書けなかったのは、新しいメガネが出来上がらなかったためです。61歳を過ぎると本当に年寄りになってしまうのでいやになります。今日の嵐で桜が散ってしまうところが多いのではないでしょうか。

以前のブログにも書きましたが、「散る桜、残る桜も、散る桜」という良寛さんの言葉があります。大和言葉で「桜」とは解説しますと、「さくら」の「さく」と言う言葉は、「再生」を意味します。「ら」という言葉は大和言葉ではないのですが、「ら」に近い言葉があります。「あ」の言葉で発音する口の形「ら」の言葉を発生しますと、弥生時代の「明年」、つまり「来年」を意味します。

つまり今年の「桜」は、今年だけの咲く「いのち」、二度と咲かないが、来年に生まれ変わる咲く、という意味があります。そのことから日本人のDNAの中に「桜」は「再生」、来年に楽しみに生きていなさい、という意味も込められています。そこには「現生」を完結させる鮮やかさがあります。それが、日本人の「死生観」でもあり、日本人の「生」を桜の花が咲き満ちる姿に求めたのでしょう。

話しを変えて「万葉集」の中には、桜を読んだ歌が約40首ほどあります。、すべて山桜だと思います。ソメイヨシノは江戸時代に品種改良されたことは有名です。

ところで「万葉集」の中で変わって名前の人がおられます。その名前は若宮年魚麿(わかみやのあゆまろ)と言います。私は、この人を、どうしても宮廷歌人とは思えないのです。彼は、稗田阿礼さんと同じ職業で古い神代のことを記憶し伝承して行く仕事だと思います。

そのために天皇や大和の国をほめたたえている歌が多いと思います。「万葉集」巻8・1429若宮年魚麻呂の長歌を見ますと、当時の宮廷の桜の花見の宴の様子が伺えます。

をとめらが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)の かづらのためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに

解釈しますと、少女の飾りのために、また風流な人の髪飾りのためにと、天子様が治めていらっしゃる国の果てまで咲いている桜の花の色の何と美しいことよ、となります。恐らくこの長歌は、日本の国の果てまで、咲いている桜の美しさを天子さまの威光と重ねてあわせて歌い上げています。「明年」も「今年」散った「桜」も再生される、日本と天子さまは継続の「いのち」を持たれている、と言う歌です。

ところが反歌に若宮年魚麿は、前述の長歌と違い、私的な男女の恋の思いを感情こめて歌っています。「万葉集」巻8・1430に次のような返歌があります。

去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも

意味は、去年の春に会ったあなたを恋しくて、桜の花は今年こうして迎えに来たにちがいないことよ、ということです。私みたいに、宮司と言う公的に近い職業で長歌を詠いながら、返歌に私的な男と女の複雑な「愛」を表現していると思えば楽しく読めます。逆な立場で言えば「男」が「女」の立場で返歌を歌っています。つまり演歌歌手の男性が「女心」を歌っているようなものです。

今日の嵐がなければ、今年も順調に桜の季節を向かえたはずです。私の好きな短歌に伊勢大輔(いせのたいふ・詞花和歌集)の短歌があります。白川神道と縁のある女性です。正三位神祇伯・大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘さんです。中宮定子のいとこ・高階成順(なりのぶ)と結婚し、勅撰歌人で後の白川神祇伯康資王の母(やすすけおうのはは)を産みました。また紫式部や和泉式部とも親しい間柄でした。

古への 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
  
いにしへの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、ひときわ美しく咲き誇っております、と言う意味です。
 
伊勢大輔は、奈良から宮中に届けられた八重桜の献上品を、宮中で受け取る役に抜擢されました。伊勢大輔はこの時、紫式部からこの役を譲られたばかりでした。それが藤原道長から急に即興で詠めと言われ、即座に返したのがこの歌です。

いにしえの古都、奈良の都の八重桜が、九重の宮中で見事に咲き誇っていますよ、朝廷の「再生」と今の天子さまの御世はさらにいっそう美しく咲き誇って「再生」されているということが感じられる見事な歌だといえるでしょう。
           
ところで奈良公園には4700本の山桜をはじめ、八重桜なども1800本見ることができます。
私も昨年の奈良県吉野地方を襲った風水害から一度も代々の諸領地、吉野の天辻に帰っていません。私の山林と家は無事でしたが従兄弟の家と山林は大変な被害を受けました。十津川村にいる遠縁も命だけ助かりました。

今日の嵐も心配ですので、近々に吉野へ行くつもりです。この時期、奈良県五條市の吉野川を越えて30分ほど自動車で走りますと、山桜が見えてきます。今年は従兄弟のの竹原家の「再生」を「桜」に手向けて入ってまいります。今年は親鸞聖人が亡くなられて750年になります。私の心境は親鸞の短歌と同じです。

明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは



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取手図書館 田中

メールで失礼いたします。茨城県取手市の取手図書館の田中と申します。

当館の利用者から、貴殿のホームページにある下記の学説の根拠が記されている文献を参照したい、との問合せがありました。興味深い説で、自身でエッセイを書く際に参照したいそうです。当館でいくつかの文献をあたったのですが、わかりませんでした。もしよろしければ、ご教示いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

【以下、引用】
大和言葉で「桜」とは解説しますと、「さくら」の「さく」と言う言葉は、「再生」を意味します。「ら」という言葉は大和言葉ではないのですが、「ら」に近い言葉があります。「あ」の言葉で発音する口の形「ら」の言葉を発生しますと、弥生時代の「明年」、つまり「来年」を意味します。

【連絡先】
〒302-0004
茨城県取手市取手1-12-16
取手市立取手図書館
TEL:0297-74-8361
メール:weblib@toride-toshokan.jp

by 取手図書館 田中 (2016-09-24 13:51) 

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