「天津祝詞の太祝詞事」について

「天津祝詞の太祝詞事」について
数ある祝詞の中でも、最も重視されるものに「大祓詞(おおはらえのことば)」です。毎日朝夕、全国の神社で奏上されています。また「大祓式」は平安時代から続く公の神事で、一年を半分に分け、6月30日を「夏越しの大祓」、12月31日を「年越しの大祓」ともいい、日本全国の神社で同日に斎行されます。

鶴見神社では白川流の神道を継承していますので、毎日朝夕の拝礼の際には「中臣祓」を奏上しています。もちろん年2回の「大祓式」には「大祓詞」を奏上します。ところで
「大祓詞」にも「中臣祓」にも、「天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ」という一節がありますが、ではその「宣れ」と言う「太祝詞事」とは何なのか、未だに謎となっています。

同じ白川流を継承しています鬼倉足日公(おにくらたるひこ)によりますと、それは天津祓(あまつはらえ)の事だと言っておられます。天津祓とは、「三種の祓」の八言(やこと)を指します。八言がそれぞれ八柱の神に対応しているとし、天津祝詞の中核をなす詞だといわれています。

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これは江戸時代の鈴木重胤の三種祓詞説と同じです。「中臣祓」「大祓詞」という祝詞の中に「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」という句があり、そのあとに「秘言」を唱えるという説は昔からあります。江戸時代の国学者賀茂真淵や本居宣長は「天津祝詞の太祝詞事」とは「大祓詞」全体を指すので、「秘言」はないと言われました。

 しかし平田篤胤は「天津祝詞の太祝詞事」があって、独自の「かく宣らば」の前に「禊祓詞」を唱えました。伊勢神宮に一切成就祓の詞という物が伝わっています。「極めて汚き事も滞りなければ穢れはあらじ、内外の玉垣清し浄しと申す」これが「天つ祝詞の太祝詞」であろうという説もあります。私の師匠は「君が代」が「天つ祝詞の太祝詞」と言って唱えていました。

 もともと「大祓詞」は私的なものと公的なものとがあります。私的なものは毎日奏上するのが「中臣祓」で、公的なものは「夏越しの大祓」「年越しの大祓」の「大祓詞」だと思います。もう一つ要素に「大祓詞」には、参列者に述べ聞かせる要素のものと、神前に奏上する要素のものがありますが、「延喜式」の中にある「六月晦大祓」を見れば、神前に奏上する方が古いようです。

実際に「大祓詞」奏上時、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」の部分で何らかの言葉を唱えてきた歴史的事実があります。そのような事実がある限り、「秘言」自体は否定できません。ただ、最近の一部の宗教家には「秘言」を知っているので、お金を取っている人もいます。

「太祝詞事」とは大和言葉では「立派な祝詞」と言うことになります。太は美称です。祝詞は神さまに向かって唱える言葉です。「古事記」の神代に天照大御神さまが天の岩屋戸にお隠れになられたとき、八百万の神さまが集まり相談なさいました。その結果、布刀玉命(忌部の祖)が様々な献物を持ち、天児屋命(中臣の祖)が「布刀詔戸言」を申し上げたとあります。

また「日本書紀」の神代上第七段一書第一には、日神が磐戸から再び現れた後、その原因となる乱行を働いた素戔嗚尊に対して「解除」を科す際、天児屋命に「解除の太諄辞」を宣らせたとあります。その訓注に「太諄辞、此をば布斗能理斗と云ふ」とあります。

「古事記」では、天の岩戸神話に基づいて「太祝詞」は天照大御神の出現を目的としています。「日本書紀」では、素戔嗚尊の罪を祓うために唱えられたとあります。そのために白川流の神道では、「ひふみの祓詞」を考え出し、これを「天つ祝詞の太祝詞」だと言っています。
いろは四十八文字を言い直したような言葉ですが、人間全ての心持は、この四十八音の中に含まれているのだから、これを皆言うことが、すべての神心を表現しているというのです。

ひふみよいむなやこともちろねらしきるゆゐつわぬそおたわくめか、うをえにさりへてのますあせゑほけれ

このことから「太祝詞」とは、神さまに向けられた「秘言」の総称でることが明らかです。しかし例外があります。「万葉集」の中で大伴家持が「酒を造れる歌一首」(17-4031)として、

造酒の歌一首

中臣の 太祝詞言(ふとのりとごと) 言ひ祓へ 贖(あか)ふ命も 誰がために汝(な)れ

右大伴宿祢家持作之

解釈しますと、中臣の、太祝詞言を、神職より唱えてけがれを清め災いを除いて酒を捧げて長寿を祈るのは、誰のためでもないきみのためだよ、と言うことになります。「中臣の太祝詞言」を唱えて祓えをし、祈る命も誰のためか、あなたのためだ、と詠んだのが文献上に残る私的な唯一の例です。

ところで折口信夫先生は、論文「呪詞及び祝詞」の中で次のように記載されています。

 天つ祝詞は、高天原から伝つてゐるものだ、といふ信仰を以て、唱へ伝へられて来てゐる。唯今、天つ祝詞といふ言葉の這入つてゐるものは、主として、斎部祝詞であるが、これは鎮詞に属するものである。斎部は、天皇に対する雑役に与つてゐた。又中臣大祓詞、これは、斎部祝詞に似てゐるが、此中に、天つ祝詞といふ言葉がある。

 此天つ祝詞といふ言葉は、常に「あまつのりとの太のりとごと」と続く。此中の「太」は、単に、天つ祝詞の美称と考へられて来てゐるが、私は、壮重なのりとに於いて、唱へられる言葉、即天つ宣ノり処トに於ける、壮重なのりとごとゝ解する方がよいとおもふ。天つ祝詞を唱へる個処は、動作を伴ふところであるらしい。其動作をするのが、斎部の役人達であつた。これを唱へると、不思議なことがあらはれて来る。

 天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんすのやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。
 
 それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。

鶴見神社では、前述した通り、毎夕は「中臣祓」を独特の節回しで奏上します。そのときは「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」は「秘言」として「古於呂、古於呂」という言葉が伝わっています。年2回の「大祓式」には「秘言」はありません。ただ「中臣祓」は代々継承したものなので、普通の「大祓詞」とは違います。


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又城茂樹

唐突ですが、「そのために白川流の神道では、「ひふみの祓詞」を考え出し、これを「天つ祝詞の太祝詞」だと言っています。」此の記述は間違っていませんか?ひふみの祝詞は古代からあると言われてますし日月神示でも記載がありますし、カタカムナ文字にも
見られます。白川流神道が考え出したというのは根拠があるのでしょうか?
by 又城茂樹 (2019-02-25 18:33) 

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