紀元二千六百年

紀元二千六百年

今日は平成29年11月10日です。77年前の今日、昭和15年1940年(1940)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下に内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されました。

当時、我が国では11月14日まで全国各地で神事や祝賀会、記念行事が繰り広げられました。当社でも盛大に式典が行われ、大阪市の役員たちが出席し、「万歳旛」を2対寄進されました。今では一宗教法人に公共機関が寄進することはないですね。

ところでお正月の年賀状に、私の友人たちは「皇紀2677年元旦」、「皇暦」で年号を書いてきます。そもそも「皇紀」とは、明治5年(1872)に制定された日本国独自の日本紀元です。

世界中にはバビロニア暦・ユダヤ暦・ヒンドー暦・イスラム暦・仏滅紀元等が残っています。世界中で使用されている西暦はイエス=キリスト生誕年を基準として年代を数える西暦の紀年法です。525年に考案されイスラム圏を除きほぼ世界共通の紀年法となっています。

イスラム圏では、開祖ムハンマドが迫害により、故郷のメディナに脱出した西暦622年7月16日をもってイスラム歴元年とするヘディラ紀元があります。タイでは仏歴が採用され、西暦に543年を足したものになっています。

「皇紀」を計算するのは簡単です。西暦に660をプラスすれば「皇紀」が分かります。例えば来年は2018年です。2018+660=2678になります。来年は皇紀2678年です。
建国されて2678年となります。それではわが国は紀元前660年に建国されたことになり、皇紀元年は紀元前660年です。

それではなぜ、紀元前660年に建国された理由は何処にあるのか、と言うことになります。その理由を説明します。

推古天皇の時代の辛酉(かのととり、しんゆう)の年は西暦601年です。聖徳太子が活躍された時代です。その時代、中国の讖緯説(しんいせつ)が我が国に影響を与えました。讖緯説とは大きな革命が21回目の辛酉の年、1260年に一回来るという考えをもっていました。

今年は2017年は丁酉年(ひのととりどし)です。来年の2018年は戊戌年(つちのえいぬどし)です。十干十二支で言えば同じ丁酉年は60年後の2077年に、戊戌年は2078年にめぐってきます。60年一度、元に戻るのが十干十二支です。今年生まれた子供が60年後の丁酉年に行うのが還暦のお祝いです。元に戻ったという意味でのお祝いです。

讖緯説は辛酉の年が21回めぐるときですから、21×60=1260と言うことになります。

その時代、聖徳太子は我が国の歴史書を編纂する事業に取り込んでおられました。歴史書は年代が必要です。推古天皇は33代の天皇です。推古天皇の辛酉の年、西暦601年から1260年前を引くと辛酉の年が初代天皇の神武天皇が即位式された年数になるようにしたのです。それが紀元前660年になります。

ところが前述した推古天皇は推古天皇は33代の天皇です。32代までの天皇の1260年という期間に当てはめながら遡ったために、最初の方の頃の天皇は年齢が100年以上くらい生きている計算になってしまいました。初期の天皇の年齢がカサ増しされたのでしょう。

歴史的事実からすれば皇紀元年がいつかは正確にはわかりえないということになります。文字で記録されていないから、あてにならないという考えもあります。当時は神話のような伝承で伝えられたのです。今との人は文字やPCで残せますが、記憶力は衰えてきます。

その時代の語部は想像以上に記憶伝承されているのです。

西暦の紀元となっているキリストの生誕ですら賛否両論があります。2017年前に生まれたという説が主流というわけではないです。しかし日本のすごいのは歴史的事実ではないけれど、天皇陛下がおられ、昔ながらの宮中祭祀を執り行われていることです。しかもそれが今も続いているのです。

日本人のご先祖を求めると神話につながってしまわざるを得ない不思議な国なのです。我が国の紀元が正確にわからないほど古い国、それが日本の国柄というものです。それも世界最古の皇室と国民が共に歩んでできた国なって凄いと思います。

それで77年前の今日、皇紀2600年祭が行われたのです。

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