47年の野分祭

47年の野分祭
昨日の平成29年11月25日土曜日正午から三重県四日市市大治田にある霊園で森田必勝さんの47年目の野分祭を斎主として斎行しました。今回は主催の三島・森田事務所から大阪市の鶴見神社宮司を斎主として自決された森田必勝大人命の墓前で野分祭を、同時刻に横浜市鶴見区鶴見の鶴見神社では金子宮司を斎主として三島由紀夫先生の慰霊祭、野分祭を同時に斎行する、と言うことに決まりました。

思えば昭和45年11月25日当時、私は20歳、森田さん25歳、三島先生は45歳でした。
東京は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で先生と森田さんが自決されたのは47年も経ちますが、先生の檄文の言葉や森田さんの志は決して忘れることはありません。

当時、私も楯の会に入会するために三重県久居市の陸上自衛隊第10師団第33連隊に入隊し訓練を受けていました。楯の会事件が起きていなかったら森田さんの勧めで楯の会に入っていました。

男の私が言うのもおかしいけれども、森田さんは笑顔がとてもかわいい人でした。よくサントリーレッドをコーラーで割って飲み憲法改正して自衛隊の国軍、自主憲法・自主防衛の話しを聞かされました。森田さんは、ハイライトを吸われていましたが、先生と違いタバコの本数は決められていました。先生は缶ピースを好まれ大変なヘビースモーカーでした。生きておられたら先生は肺がんになられていたのではないかと思います。

森田さんは少々肥満気味で、あるときなど「タバコをやめたら太るし新聞配達のアルバイトもしたけれどやせない。花谷、どうすればお前みたいにやせられるのか」。当時、私は森田さんの悩みは肥満だと思っていました。まさか昭和45年9月ごろ、「墓参りに四日市に来ている」という電話が最期になるとは思いませんでした。

あの時に伊勢市から四日市まで出かけて森田先輩と会っていたら、と随分悩みました。

私は森田さんのことを先輩とお呼びしていました。そのことから森田さんと一番親しいくされていた伊藤好雄さんのことを今でも先輩と言っています。亡くなられた元楯の会の阿倍勉さんや持丸博さんも先輩と呼んでいました。

今年の8月、元楯の会の勝又先輩と伊藤先輩が当社に来られ、横浜の鶴見神社では主に三島由紀夫大人命の野分祭、四日市市大治田の慰霊碑では森田必勝大人命の野分祭を大阪の鶴見神社の宮司が斎行してほしい、と言うことでした。横浜の鶴見神社も大阪市の鶴見神社も兄弟関係同様なので承諾しました。「身罷った森田と宮司は親しかった」ということも言われましたので11月25日の土曜日は鍼灸の治療は休診としました。患者さんには申し訳ありません。また七五三の参拝が多いのなか、私を含めて2名の神職がいなくなるのですから、禰宜の息子には申し訳ないと思っています。

47年祭、野分祭を斎行するために、昨日は午前10時20分に森田家の墓前と森田さんの慰霊碑の前に到着し、神事の準備をしました。私を含めて神職2名の神事です。野分祭を執り行うために装束の着装の場所が必要となります。そのため森田さんのお兄さんの家で装束の着装をさせていただきました。そのときに仏壇にもお参りさせてもらいました。

私は「斎服」(さいふく)に冠(かんむり)、当社の神職は「浄衣」(じょうえ)に烏帽子(えぼし)を被り、野分祭を斎行しました。ただ森田家から慰霊碑まで自動車に乗せてもらいました。

森田さんの慰霊碑の前には元楯の会会員、伊藤先輩を含んで18名と警視庁の公安警察1名が参列されていました。野分祭は時間通り正午に斎行しました。

私が鶴見神社宮司として自決された先生や森田先輩の慰霊祭を斎主として斎行するとは考えもしなかったことです。野分祭終了後、森田家のご好意で自宅の仏壇の前で直会(なおらい・共飲共食儀礼)となりました。

直会終了後、元楯の会の三宅孝生先輩の津市にある店で懇親会を開催しました。午後5時から午後7時まで飲みました。先輩たち、50年目の野分祭まで長生きをして下さいね。


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