平成の御世の最後の「野分祭」について

平成の御世の最後の「野分祭」について
今月の11月24日、三重県四日市市大治田に出向き、正午から「野分祭」を執り行います。

昭和45年11月25日、三島由紀夫先生と自決された森田必勝先輩の慰霊祭、「野分祭」を斎主として先輩の墓前で神式で斎行します。

翌11月25日は横浜市の鶴見神社で三島先生の野分祭が斎行されます。

不思議なことに横浜の鶴見神社では例年、金子宮司が斎主として野分祭が斎行され、大阪の鶴見神社の宮司の私が森田先輩の「野分祭」を斎行しています。東と西の鶴見神社が斎行することは、先生や森田先輩の神霊の意向によるものだと思います。

今年で「野分祭」は48年祭になります。昨年は秋空のいい天気に恵まれ、楯の会の先輩、同志諸兄が参列されました。今年も晴天を祈り元気で先輩諸兄にお会いするのが楽しみです。

今年も祝詞を作成する時に涙が流れてきました。この時期、やたらと感傷的になります。NHKの大河ドラマ「西郷どん」を視聴しても、西郷隆盛を演ずる鈴木亮平が若き日の森田さんに見えて涙が流れてしまいます。

最終回になりますと、城山で西郷隆盛先生の自決される場面が出てくると思います。先生と森田先輩を思い出してしまうので視聴しないことにしています。

ところで日本は不思議な国だと思います。歴史と文化が守られている限り、万世一系の天皇陛下がおられる限り、「死ぬことによって蘇る系譜」があります。楠木正成・吉田松陰・橋本左内・西郷隆盛・日清から大東亜戦争の英霊は我が国の危機的な状況において蘇られています。

幕末の志士に筑前久留米藩の水天宮の神職、真木和泉守保臣がおられます。私は真木和泉守と同じ神職の家に生れていますので尊敬している人物です。彼は「今楠公」と呼ばれたほど楠木正成を敬慕していました。真木和泉守の日記を見ますと、毎年5月25日に執行されていた「楠公祭」のことが記載されています。

そのうちの安政6年(1859)5月25日のところに「25日、雨の日の正午、楠公をお祭する。しかし午前に血を吐いた。おそらく肺からの喀血であろう。量は多くないので、心配はない」この状況でも「楠公祭」を斎行されたのです。

真木和泉守は、文久3年(1863)5月25日の「楠公祭」を山口県の下関で斎行しました。この日の前後、下関は大変な緊張状態でした。23日は下関の砲台からフランス軍艦、26日にはオランダ軍艦を砲撃しています。

翌元治年(1864)5月25日の「楠公祭」は山口の隣の湯田で行われました。その2ヵ月後の7月21日に真木和泉守は禁門の変の戦いに敗れ、天王山で同志16名ともに自刃されました。

明治維新を考察しますと「楠公」の精神を抜きでは考えられません。そのことから「野分祭」の意義を語り継ぐことにより、次の世代が「三島由紀夫先生と森田必勝先輩」を仰ぎ、それを心の支えとして日本を日本らしく改革してくれると信じています。

私は両烈士から学んだことは「誠」という言葉でした。特に森田先輩は「誠」という言葉が好きでした。一片の「誠」は小さくとも、それは歴史を動かし、国の命運を支えるものです。

真木和泉守の神職としての生き方の中心は「誠」でした。「誠」には道を万世に開く力が存在します。

元楯の会の先輩たちが「誠」を持ち、繰り返し繰り返し、変わりなく同じ年に同じ祭り、「野分祭」を続けてこられました。感銘のほかはありません。「野分祭」を斎行することの意味深さをかみしめて、今回も真木和泉守になりきり斎主として斎行させてもらいます。

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