「元号法」と影山正治先生

「元号法」と影山正治先生

4月1日に新元号「令和」と閣議で決定されました。テレビの中継を観ていましたら影山先生のことを思い出し涙が流れてしまいました。

若い人たちは存知あげないと思いますが、影山正治先生と言う人物がおられました。先代も師匠も尊敬してやまない人物でした。三島由紀夫先生の代表作である「豊饒の海・奔馬」の飯沼勲のモデルは影山正治先生だと言われています。影山正治先生は「利に疎く義に篤い」古武士そのものでした。

影山先生の父、影山庄平先生は昭和20年(1945)8月25日、「清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ」との共同遺書をしたため代々木練兵場(現代々木公園)にて大東塾生13名と共に割腹自決を遂げられました。

作法は神道の古式に基づいて割腹自刃、日本再建維新の人柱となられたのです。

当時、影山先生は昭和19年11月に応召し中国大陸に出征され、華北省で終戦を迎えられていました。

昭和22年ごろ影山先生は大東塾を継承されました。東京都港区青山にある本部の大東会館は一般財団法人となり、神道・国学・歌道関係者及び学生のための研修施設を設置運営されました。主に国学院大学の学生を中心の学生寮も設置されました。

大東塾は街宣車を持つ右翼団体とは違い、純粋な日本主義のロマン派なのです。毎年、皇居清掃奉仕や新穀献上、伊勢神宮御造営奉賛活動もされています。そのことから生前、三島先生も一目置かれていました。

この影山正治先生が、昭和54年(1979)元号法制化の法案が参議院で決着するかどうかというときに、東京都青梅市の勤皇村大東塾農場内で「元号法制化」の祈願を込められて、「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」と書かれた遺書を残し、昭和54年(1979)5月25日、自らの身を玉串と捧げて、割腹の後、散弾銃で自決されました。68歳で「護国の鬼」となられました。影山先生の辞世の句を紹介します。

「一死以て元号法制化の実現を熱祷しまつる」

民族の本(もと)ついのちのふるさとへ はやはやかへれ戦後日本よ

身一つをみづ玉串とささげまつり 御代を祈らむみたまらとともに

影山先生の死後、12日後の6月6日、元号法制化は実現し元号法が制定されました。「元号法」は可決されたのです。

当時の世論調査の結果で「元号」を使用している国民は87.5%にもなっていました。しかし昭和52年(1977)1月、当時の日本社会党は「元号廃止法案」の準備にかかり、キリスト教徒や一部の仏教徒が反対し予断を許さない状況でした。

「元号法」が制定されていない状況で、お年を召されられた昭和天皇に万が一のことがあれば、我が国の伝統と文化は消失し、「践祚」(せんそ・天皇の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)・「大嘗祭」も絶たれる可能性もありました。「元号」が廃止されると日本人のアイデンティティーが失われることになります。そのことから影山先生は人柱になられたのです。

元号も「昭和」から「平成」と改元されました。今回、「平成」から「令和」と5月1日午前零時に改元されます。新しい天皇の御代になると元号が改められます。これが普通のように受けとめられています。「元号法」が制定されるまでは上記のように苦難の歴史があったのです。



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