仁徳天皇の徳政と消費税の増税について

仁徳天皇の徳政と消費税の増税について
令和元年7月6日、仁徳天皇陵の古墳はユネスコの世界遺産に登録されました。仁徳天皇といえば小学校の運動会に国歌・校歌とともに大阪市歌を思い出します。

大阪市歌は大正10年(1921)に制定されたものです。大阪市歌は三番までありますが、注目する点は一番です。

1.高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙にぎわいまさる大阪市、 にぎわいまさる大阪市

大阪市歌の一番目の歌詞は仁徳天皇の徳政を敬い讃えています。

「日本書紀」によると、仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮の高台から遠くをご覧になられて仰せられました。

「民のかまどより煙がたちのぼらない。民が貧しくて炊くものがないのではないか。五穀が不作で国中が困窮している。都がこり有様だから、地方はもっとひどいことであろう」と仰せられのです。

その結果、「向こう三年、税を免じ民の困窮を救う」と詔(みことのり)されました。

それからというものは、天皇は衣服が傷んでもを新調されず、食事は質素にされ、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から漏れて見えて床を照らすという有様にも堪え忍び給いました。

三年がたって、再び天皇が高台に出られて、かまどの煙が盛んに登るようになりました。この様子をご覧になられて、かたわらの皇后に申されました。
 
「朕はすでに豊かになった。もう心配はない。嬉ばしいことだ」
 おそばにおられた皇后様は「宮垣が崩れてしまい、宮殿の屋根が破れているのに、どうして豊かだとといえるのですか」
 
「よく聞きなさい。天下を治める天皇の政事は民のためにある。故に古(いにしえ)の聖(ひじりの)王(きみ)は民が一人でも飢え凍えるときは、自らを反省し責めたものだ。その民が富んでいるから、朕も富んだことになる」と天皇は、ニッコリされて、こう申されました。

 そのころ、国中より「宮殿の屋根は破れて壊れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者は誰一人いない。もしこの時に、税を徴収していただき、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰があたります」との申し出が頻繁にあるようになりました。

 それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を徴収することをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を徴収し、宮殿の修理をお許しになりました。

その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。

十年冬十月、甫科課役、以構造宮室。於是、百姓之不領而扶老携幼、運材負簣、不問日夜、竭力競作。是以、未經幾時而宮室悉成。故、於今稱聖帝也。

仁徳天皇十年十月。民、うながされずして材木を運び篭に盛り土を入れて背負い、日夜を問わずに働くことに競い合い、そんなに日数がかからないで宮殿は修理できた。それ故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉るという解釈です。仁徳天皇は崩御の後は、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉られたのです。

仁徳天皇は免税によって民の生活を豊かにされました。しかし我が国では仁徳天皇の徳政も知らずに、令和元年10月1日、消費税が10%に引き上げられました。数年前の「働き方改革」により残業手当が減り給料とボーナスは昨年よりも伸び率が低い状態になっています。誰が考えても消費税アップは消費を低下させます。

わが国の国内総生産(GDP)の6割弱は個人消費です。個人消費が低下すればデフレ不況は脱却できません。デフレ現象が現実的に起きた国は1990年代以降では日本以外にありません。

税金はお金持ちや利益があるところからたくさん取る、困窮している人からは取らない。これが当たり前のことです。困窮していようがいまいが、とにかく取るというのが消費税です。

私だって消費税が上がれば買い物を控えて消費をしなくなります。そうなればデフレ不況は続きます。直接税の所得税・法人税・相続税・贈与税を上げて、間接税の消費税を引き下げることがデフレを脱却させる方法だと思います。

社会保障の財源は国民の消費が伸びれば税収は増えます。我が国の国民の預貯金は約1000兆円もあります。我が国はこれだけの預金があって景気が悪い不思議な国です。国民に消費させないとお金は廻りません。消費税減税を行い、緊縮財政をやめて公共事業を行うことです。

仁徳天皇の徳政から学び、国民を思いやる政治を行ってほしいです。

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