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「即位礼正殿の儀」と「平安遷都の日」は同日

「即位礼正殿の儀」と「平安遷都の日」は同日
私の祖父母・兄弟・従兄弟まですべて京都で教育を受けました。京都に住んだことがないのは親戚で私だけです。私は大阪の浪速高校から伊勢市の皇學館大學で学びました。

住んだことが無いために京都の人の考え方や気質は分かりません。先代はどちらかと言えば京都の人になりきっていました。先代は当社の宮司でしたが、京都の下賀茂神社に勤務していたので、やたらとプライドが高く格式にこだわりました。

昭和初期、先代と兄弟は烏丸通今出川に借家を借りて住んでいました。いっしょに京都に行くと「このあたりは西郷隆盛が歩いていた通りや、あの石は薩摩藩士が立小便したところや」と見たようなことをしゃべっていました。そのことから京都は歴史を身近に感ずる不思議なところだと思いました。

先代は、京都の人の「先の戦争の際、京都は焼け野原でした」と言う先の戦争とは「応仁の乱」のことを言うと。

ところで50年間も付き合っている京都の友人のお話しです。

「10月22日の即位礼正殿の儀に使用される高御座、なぜ京都御所にあるのか知っているか。明治天皇さまは、ちょっと東京へ行ってくると出かけられてから大正天皇・昭和天皇・上皇陛下と続けられて東京にお住まいやけど、いつでも天皇さまが御所に戻って来られるにように京都御所においてあるんや」

歴史的に見て京都の人は天皇さまと深いつながりがあり、お互い信頼と敬愛に基づく間柄があるのだと友人の話しを聞いて実感しました。実際、明治天皇・大正天皇・昭和天皇は京都御所で即位式をされています。戦前の「皇室典範」に天皇即位の大典は、京都御所で執り行うことが明記されていました。

現代では国内外をふくめて東京を首都と認めています。ところが京都から「東京遷都」の詔(みことのり)は存在していません。現憲法にも首都を東京に定めた法律はありません。

慶応4年7月17日(1868年9月3日)に、明治天皇が発せられた詔勅、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」をご覧下さい。

朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ

江戸が東京(西の京に対しての東の京)に改称したことが記載されています。これは「東京遷都の詔」ではありません。東京に名称を変更しただけです。

同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に明治天皇が東京に入られました。翌明治2年(1869)に新政府が京都から東京に政治を移行したのです。明治4年までには新政府の中央機能は東京に移転しました。

政治の中心を東京に移動しただけで京都御所、京の都が残されたままで現代にいたっています。

遷都とは都を遷すことです。奠都(てんと)とは新たに都を定めることです。このことから「東京遷都」ではなく「東京奠都」と言う言葉が成り立ちます。こうなれば「東西両京」が存在し、京都の人が言うように天皇さまがお留守されているだけ、と言えます。

もう一つ不思議なのは、今上陛下の「即位礼正殿の儀」が執り行われる日付をご覧ください。令和元年10月22日です。毎年10月22日は京都市で時代祭の行列が行われる日です。

時代祭は葵祭や祇園祭と共に京都三大祭の一つです。時代祭の行列の日程は延暦13年(794)10月22日、桓武天皇が「平安遷都の詔」を発せられ、長岡京から平安京に移ったことに由来しています。

「平安遷都の日」を記念して京都市では、毎年10月22日に時代祭の行列が行われているのです。

もし仮に皇室の関係者のお方が10月22日に御即位の日として望まれたのであれば、京の都のことをお忘れでなかったということになります。

「即位礼正殿の儀」が「平安遷都の日」に執行されることは天皇陛下と京都の人たちの絆が一層強くなります。

本来なら「即位礼正殿の儀」と同日に「時代祭の行列」が行われるのですが、今回「即位礼正殿の儀」が執り行われますので、10月26日(土)に変更となりました。残念です。

天皇陛下は即位礼の儀式の当日、宮中三殿の賢所・皇霊殿・神殿のそれぞれに陛下がみずから報告されます。

そして午後1時から「即位礼正殿の儀」が執り行われます。皇居の正殿に設置された高御座において天皇陛下が御即位を公に宣明されるとともに、列席した国内外の代表らがお祝いします。

もし同日に時代祭の行列が行われていたら、「即位礼正殿の儀」が開始されるころは、京都市役所前を通過するころです。



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即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)に際して

即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)に際して
今月10月22日は今上陛下の即位礼正殿の儀の行われる大変おめでたい日です。当社の氏子の皆様と共々御大典に奉祝の意を表させて頂きたいと考え、当社では新しく例祭提灯の作製と提灯吊台を新たに設置しました。

ところで当社の秋の大祭が10月19日・20日です。その二日後の10月22日は即位礼正殿の儀が執り行われます。新しく作製187個の提灯も赤々と照らして御皇室の安泰と国民が平和で安心して暮らせますようにと祈願します 

皇位につかれた今上陛下がその即位を全国の国民、200近い外国の元首・祝賀使節が参列する中で高らかに宣明されます。その御即位を内外の代表がお祝いする儀式が即位礼正殿の儀です。

即位礼正殿の儀が行われる日の令和元年10月22日は祝日となっています。

祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)(パレード)
国民に広く御即位を披露され、祝福を受けられるため、天皇皇后両陛下のパレードを行います。即位礼正殿の儀の終了後、午後3時半に皇居・宮殿を御出発になり、おおむね午後4時に赤坂御所に御到着になる予定です。当日に台風が来るなど荒天の場合などは、10月26日(土)に延期となります。


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仁徳天皇の徳政と消費税の増税について

仁徳天皇の徳政と消費税の増税について
令和元年7月6日、仁徳天皇陵の古墳はユネスコの世界遺産に登録されました。仁徳天皇といえば小学校の運動会に国歌・校歌とともに大阪市歌を思い出します。

大阪市歌は大正10年(1921)に制定されたものです。大阪市歌は三番までありますが、注目する点は一番です。

1.高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙にぎわいまさる大阪市、 にぎわいまさる大阪市

大阪市歌の一番目の歌詞は仁徳天皇の徳政を敬い讃えています。

「日本書紀」によると、仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮の高台から遠くをご覧になられて仰せられました。

「民のかまどより煙がたちのぼらない。民が貧しくて炊くものがないのではないか。五穀が不作で国中が困窮している。都がこり有様だから、地方はもっとひどいことであろう」と仰せられのです。

その結果、「向こう三年、税を免じ民の困窮を救う」と詔(みことのり)されました。

それからというものは、天皇は衣服が傷んでもを新調されず、食事は質素にされ、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から漏れて見えて床を照らすという有様にも堪え忍び給いました。

三年がたって、再び天皇が高台に出られて、かまどの煙が盛んに登るようになりました。この様子をご覧になられて、かたわらの皇后に申されました。
 
「朕はすでに豊かになった。もう心配はない。嬉ばしいことだ」
 おそばにおられた皇后様は「宮垣が崩れてしまい、宮殿の屋根が破れているのに、どうして豊かだとといえるのですか」
 
「よく聞きなさい。天下を治める天皇の政事は民のためにある。故に古(いにしえ)の聖(ひじりの)王(きみ)は民が一人でも飢え凍えるときは、自らを反省し責めたものだ。その民が富んでいるから、朕も富んだことになる」と天皇は、ニッコリされて、こう申されました。

 そのころ、国中より「宮殿の屋根は破れて壊れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者は誰一人いない。もしこの時に、税を徴収していただき、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰があたります」との申し出が頻繁にあるようになりました。

 それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を徴収することをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を徴収し、宮殿の修理をお許しになりました。

その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えている。

十年冬十月、甫科課役、以構造宮室。於是、百姓之不領而扶老携幼、運材負簣、不問日夜、竭力競作。是以、未經幾時而宮室悉成。故、於今稱聖帝也。

仁徳天皇十年十月。民、うながされずして材木を運び篭に盛り土を入れて背負い、日夜を問わずに働くことに競い合い、そんなに日数がかからないで宮殿は修理できた。それ故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉るという解釈です。仁徳天皇は崩御の後は、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉られたのです。

仁徳天皇は免税によって民の生活を豊かにされました。しかし我が国では仁徳天皇の徳政も知らずに、令和元年10月1日、消費税が10%に引き上げられました。数年前の「働き方改革」により残業手当が減り給料とボーナスは昨年よりも伸び率が低い状態になっています。誰が考えても消費税アップは消費を低下させます。

わが国の国内総生産(GDP)の6割弱は個人消費です。個人消費が低下すればデフレ不況は脱却できません。デフレ現象が現実的に起きた国は1990年代以降では日本以外にありません。

税金はお金持ちや利益があるところからたくさん取る、困窮している人からは取らない。これが当たり前のことです。困窮していようがいまいが、とにかく取るというのが消費税です。

私だって消費税が上がれば買い物を控えて消費をしなくなります。そうなればデフレ不況は続きます。直接税の所得税・法人税・相続税・贈与税を上げて、間接税の消費税を引き下げることがデフレを脱却させる方法だと思います。

社会保障の財源は国民の消費が伸びれば税収は増えます。我が国の国民の預貯金は約1000兆円もあります。我が国はこれだけの預金があって景気が悪い不思議な国です。国民に消費させないとお金は廻りません。消費税減税を行い、緊縮財政をやめて公共事業を行うことです。

仁徳天皇の徳政から学び、国民を思いやる政治を行ってほしいです。

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「元号法」と影山正治先生

「元号法」と影山正治先生

4月1日に新元号「令和」と閣議で決定されました。テレビの中継を観ていましたら影山先生のことを思い出し涙が流れてしまいました。

若い人たちは存知あげないと思いますが、影山正治先生と言う人物がおられました。先代も師匠も尊敬してやまない人物でした。三島由紀夫先生の代表作である「豊饒の海・奔馬」の飯沼勲のモデルは影山正治先生だと言われています。影山正治先生は「利に疎く義に篤い」古武士そのものでした。

影山先生の父、影山庄平先生は昭和20年(1945)8月25日、「清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ」との共同遺書をしたため代々木練兵場(現代々木公園)にて大東塾生13名と共に割腹自決を遂げられました。

作法は神道の古式に基づいて割腹自刃、日本再建維新の人柱となられたのです。

当時、影山先生は昭和19年11月に応召し中国大陸に出征され、華北省で終戦を迎えられていました。

昭和22年ごろ影山先生は大東塾を継承されました。東京都港区青山にある本部の大東会館は一般財団法人となり、神道・国学・歌道関係者及び学生のための研修施設を設置運営されました。主に国学院大学の学生を中心の学生寮も設置されました。

大東塾は街宣車を持つ右翼団体とは違い、純粋な日本主義のロマン派なのです。毎年、皇居清掃奉仕や新穀献上、伊勢神宮御造営奉賛活動もされています。そのことから生前、三島先生も一目置かれていました。

この影山正治先生が、昭和54年(1979)元号法制化の法案が参議院で決着するかどうかというときに、東京都青梅市の勤皇村大東塾農場内で「元号法制化」の祈願を込められて、「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」と書かれた遺書を残し、昭和54年(1979)5月25日、自らの身を玉串と捧げて、割腹の後、散弾銃で自決されました。68歳で「護国の鬼」となられました。影山先生の辞世の句を紹介します。

「一死以て元号法制化の実現を熱祷しまつる」

民族の本(もと)ついのちのふるさとへ はやはやかへれ戦後日本よ

身一つをみづ玉串とささげまつり 御代を祈らむみたまらとともに

影山先生の死後、12日後の6月6日、元号法制化は実現し元号法が制定されました。「元号法」は可決されたのです。

当時の世論調査の結果で「元号」を使用している国民は87.5%にもなっていました。しかし昭和52年(1977)1月、当時の日本社会党は「元号廃止法案」の準備にかかり、キリスト教徒や一部の仏教徒が反対し予断を許さない状況でした。

「元号法」が制定されていない状況で、お年を召されられた昭和天皇に万が一のことがあれば、我が国の伝統と文化は消失し、「践祚」(せんそ・天皇の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)・「大嘗祭」も絶たれる可能性もありました。「元号」が廃止されると日本人のアイデンティティーが失われることになります。そのことから影山先生は人柱になられたのです。

元号も「昭和」から「平成」と改元されました。今回、「平成」から「令和」と5月1日午前零時に改元されます。新しい天皇の御代になると元号が改められます。これが普通のように受けとめられています。「元号法」が制定されるまでは上記のように苦難の歴史があったのです。



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2019-04-05

「令和」の字源について
 4月1日、新元号が「令和」と閣議で決定されました。4月30日に東宮(ヒツギノミコ)に天津日嗣の大御位を譲られ、新しい天皇陛下の即位にともなって5月1日午前0時から「令和」の元号は施行されます。

「令和」は、日本最初の元号「大化」から数えて248番目にあたります。過去の歴史をしらべても「令」の字が使われたことはありません。しかし「和」は20回も採用されています。特記すべきことは日本最古の歌集である『万葉集』からの引用され、「国書」からの引用は初めてだと思います。

「令和」を私なりに考えました。先ず「令」の字源を調べてみますと、「説問解字」では
下記との通りの字が「令」の字源となります。

800px-ACC-b13977_svg[1].png
              
 人がひざまずいて神様のお告げを聞くことを表現しています。

次に「和」の字源を調べてみます。「和」は「禾」+「口」から成っています。「禾」は軍隊の門の前にある標識を表現しています。「口」は祝詞を入れる器を表しています。「和」で「軍隊の門の前で、神さまに平和を誓い合う」様子を表現しています。
「和を以って貴しと為す」とは聖徳太子の「十七条憲法」の第一条にあるように、お互いに相手を大切にし、意見を言い合い理解し、協力し合う関係にあることが「和」の精神だと思います。

「令和」と言う元号は、神仏のご加護の下で、お互いの意見を尊重して理解し協力する時代だと言う事です。
   

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「令和」の元号について   

「令和」の元号について   
平成31年4月1日、新しい元号に「令和」が決定しました。私は、素晴らしい元号と思います。北京の中国人の友人から電話がありました。その内容は元号の「令和」についてでありました。彼は政府の役人です。今回の元号は中国の漢籍に出典を求めず、日本の「万葉集」から選んだ点です。彼は「これはエイプリルフールだ。残念だ」といって正直ガックリしています。このことは中国共産党系新聞の『環球時報』は新元号の決定を「初めての脱中国」と速報していました。中国政府も「残念だ」と思っています。

今回、日本の古典に由来する元号は初めてです。「令和」の出典の「万葉集」の「梅花の歌三十二首」には次の一文があります。

初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す

安倍晋三首相は談話を紹介しますと、「令和」という元号に込めた意味について、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」と説明しています。「悠久の歴史と四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄をしっかりと次の時代に引き継いでいく」と述べました。

中国政府は自国の漢籍が採用されなかったことに対して、悔しくてたまらないと思います。中国外交部の副報道局長は記者会見で「日本の内政問題だ。コメントしない」と述べました。内心悔しさが滲み出ています。

日本共産党委員長志位和夫は「元号は日本国憲法の国民主権の原則にはなじまない」と指摘しました。また党として主張している元号法廃止については「今廃止すべきだという立場に立っていない。将来、国民の総意によって解決されるべきだ」との認識を示しました。



                2019年4月1日 日本共産党委員長 志位和夫

一、元号は、もともとは中国に由来するもので、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づくものである。それは日本国憲法の国民主権の原則になじまないものだと考えている。

一、わが党は、国民が元号を慣習的に使用することに反対するものではない。
 同時に、西暦か元号か、いかなる紀年法を用いるかは、自由な国民自身の選択にゆだねられるべきであって、国による使用の強制には反対する。

一、政府は、これまでも「一般国民にまで(元号の)使用を強制することにはならない」ことを「政府統一見解」として明らかにしている。
 この立場を厳格に守ることを、あらためて求める。

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「御代替わり」の日程について

「御代替わり」の日程について
昨年の12月4日、特別法案「天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律案」が衆議院で可決しました。参議院でも可決され、法案が成立すると来年、2019年は、土日を含め、4月27日から5月6日まで10連休となります。下記の通りです。

・4月27日土曜日
・4月28日日曜日
・4月29日月曜日----昭和の日
・4月30日火曜日----譲位
・5月1日水曜日------践祚の式
・5月2日木曜日------国民の休日
・5月3日金曜日---- 憲法記念日
・5月4日土曜日-----みどりの日
・5月5日日曜日-----こどもの日
・5月6日月曜日-----振替休日

「御譲位」の日程については、神社本庁の「御代替わり」を参考にし記載します。

「改元」
先ず改元から説明します。かつては御代替り以外にも様々な機会に改元が行われましたが、明治以降、皇位継承があった時に限り行われるようになりました。よって元号は、ときの天皇の御代を表象するものといえます。元号は、良い意味を持つ二字を用いることとなっており、国民の理想として相応しい字が充てられます。

◆譲位・・・・・・・・・・・・・4月30日(火)
退位礼正殿の儀
◆ 践祚の式・・・・・・・・・ 5月1日(水)
剣璽等承継の儀
賢所の儀
皇霊殿神殿に奉告の儀
即位後朝見の儀
◆ 即位礼・・・・・・・・・ ・10月22日(火)
高御座に登られ、内外に即位を宣明。
◆ 大嘗祭・・・11月14日・15日(予定)
天皇御一代に一度行われる祭祀。悠紀・主基の国のお米をはじめ、全国の各都道府県より特産の農水産物がお供えされます。※日付は一部報道による予定も含みます。

「譲位」
天皇が皇太子に皇位(天皇の位くらい)をお譲りになり、天皇は上皇となられ、皇太子が新たな天皇となられます。これを「譲位」といい、光格天皇が仁孝天皇に譲位されて以来、約200年ぶりのこととなります。「退位」と報道されていますが「譲位」です。

「退位礼正殿の儀」
天皇陛下の御譲位を広く国民に明らかにするとともに、陛下が御譲位前に、最後に国民の代表者に会われる儀式が、皇居の宮殿で行われます。

「践祚の式」
「践祚」は、天皇が皇位につかれることで、践祚の後、天皇がそれを公式に国内や諸外国に宣明(宣言して明らかにすること)することが「即位」です。昭和の時代までは厳密に区別されましたが、平成の御代替りでは、すべてを「即位」としています。本来は践祚とは皇位を践ふまれることを意味し、即位とは践祚ののちに高御座に即かれることを意味します。

「剣璽等承継の儀」
皇位につかれた天皇が、「三種の神器」(皇位のしるし)である鏡(八咫鏡)・剣(天叢雲剣・別名草薙剣)・玉(八坂瓊曲玉)や天皇の印章である「御璽」、日本国の印章である「国璽」を受け継がれます。

「賢所の儀・皇霊殿神殿に奉告の儀」
「三種の神器」が承継されるのと時を同じくして、皇居にある宮中三殿では新しい天皇が皇位につかれた旨を天照大御神(賢所)、歴代天皇と皇族の御霊(皇霊殿)、天神地祇(神殿)に奉告されます。

「即位後朝見の儀」
天皇のしるしを承継され、宮中三殿に奉告を終えた天皇陛下は、皇居の宮殿で、内閣総理大臣ほか三権の長、地方自治体の代表などと会われて、皇位につかれた旨を宣言されます。

上記のように「御代替わり」が執り行われ、新しい時代へ移行されます。平和で安心して暮らせる我が国を願い、伝統と文化、民族の精神が継承されてゆくことを祈念いたします。


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言挙げせぬ国

明けましておめでとうございます。

新年を迎え、初詣へ行かれた方も多いことと思います。家族の健康や会社の安全や商売繁盛を願い、またご自身の志を新たにして神さまに手を合わせる初詣は、1年のスタートを切るとてもよい機会だと思います。

ところで「万葉集」の柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 我は言挙げす」があります。

「言挙げ」とは「言葉に出す」という意味で自己主張のことです。私たちの先祖は言葉に出さずとも肌で感じ合うことを実践して、言葉や体裁、形式よりも、大切な人の心や感情を察して生きていくことの重要さを知っていました。

互いに言葉を越えて心で感じ合う社会が形成されていたのです。民度の低い民族とは違い、日本人は言葉に出さずに相手の感情を察し、心を感じ合ってお互いが心での会話をしてきたのです。

日本人は目でものをいう民族です。相手を敬う心があれば、言葉にせずとも通じ合えます。故に風水害や震災時に略奪は発生しない国なのです。

今でも多くの日本人は、言わなくてもわかっているだらうと言葉に出さないことが多くあります。

しかし沈黙するだけでは、誤解されることが多くあります。

今回の海上自衛隊の哨戒機が韓国駆逐艦から火器管制レーダーの照射を受けた問題については「言挙げ」することが必要です。「言挙げせず」の意味は「簡単に口にはしないが、覚悟をもって発言する」と言うことだと思います。

隣接する中国や韓国とは同じ黄色民族ですが、容姿は似ていても感覚と思考は全く違います。尖閣諸島や竹島などの領土問題、元徴用工訴訟をみても理解できます。

中韓二国はあらゆる国々でロビー活動を続けています。このままでは日本の主張が通用しない可能性があります。我が国も国際社会で「言挙げ」して、はっきりと訴え続けてゆくことが必要です。

しかし国民の代表たる衆参両議員の発言やテレビのワイドショーなどマスコミは、人の言葉尻をとらえたような議論や報道ばかりです。口達者であることがまさに勝者であるかのような風潮です。かつての日本人はわざわざ説明したり議論したりなど「言挙げせず」とも、互いに心と心を通わせながら人の道にかなった生き方をしていたはずです。

「言挙げせず」とも他者の心を思いやる清らかで優しい精神を持ち合わせたいものです。
法律や規則でがんじがらめになり人を信頼できない社会よりも、そういったものがなくとも人を信頼し、道義に生きる美しい日本にしたいです。


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「神宮大麻」と「神札」

「神宮大麻」と「神札」
早いもので今年も残すところあとわずかとなりました。年を重ねるごとに時間の流れが速くなったと感じるようになりました。それだけ老人になったのでしょう。

例年恒例の「稲蓬莱」もほぼ氏子地域を配り終えホッとしているところです。兼務している大宮神社の注連縄も届き、正月の準備は掃除するのみとなりました。

ところで日本では古くから、お正月にお迎えする歳神さまをはじめ、台所には竈神さま、井戸には井戸神さまなど、さまざまな神さまをおまつりし、日々の暮らしをささえて下さる神々の恵みに感謝してきた風習があります。

そのことから新年を迎えるにあたり、ご家庭や会社の神棚に新たな「神宮大麻」と氏神さまの「神札」をお受けされるお方が当社に来られます。

時々、参拝者のから「なぜ授与所に神宮大麻(御札)がおいてあるの」といわれることがあります。

「伊勢に七度、熊野に三度、お多賀様には月参り」と詠われたように、昔から伊勢は神宮鎮座の地、聖地としてあるいは「心のふるさと」として信仰されてきました。神宮への崇敬と信仰は、中世から近世にかけ御師(おんし)と呼ばれる人々の活動により、伊勢信仰は全国に広められました。御師を今の言葉でいえば旅行会社です。
  
御師達は、「神宮大麻」や「神宮暦」を全国各地へ配り、神宮の御神徳を説き各地域と神宮との精神的なつながりを推進してきました。その結果、江戸時代になると伊勢参りは盛んに行われるようになりました。

また全国各地に「伊勢講」ができました。当社の氏子地域も江戸時代から昭和30年代まで「伊勢講」が存在していました。村で講を組織して年に一度、持ち回りで講員を村の代表として参宮させる代参方式がとられていました。伊勢参りは、自分の足でひたすら歩くことになるわけですから、現代の旅行のように乗り物代はかかりません。 もちろん宿泊代や食事代も要りますので、毎月積立金をしていました。

当社では例年12月初旬、二名の講員は神宮に参拝し「神宮大麻」と「神宮暦」を受け、帰宅すると村中の各家に配りました。江戸時代から昭和30年代まで、ほとんどの世帯で「神宮大麻」と当社の「神札」がお祀りされていました。

「神宮大麻」をお受けするには二つの方法があります。一つは神宮に参拝し授与所でお受けする方法があります。二つ目には各神社の授与所には「神宮大麻」がありお受けすることができます。

各神社で受けられる「神宮大麻」がどのようにして神宮から、おまつりする家庭までたどり着くのか、「神宮大麻頒布」を「大阪府神社庁」の事例から説明します。平成30年9月中旬、奉製された「神宮大麻」は、神宮の神楽殿で行われる「神宮大麻暦頒布始祭」によって大宮司から神社本庁の統理に授与され、次にその場で統理の手から各地の神社庁長へと手渡されます。

10月下旬に大阪府神社庁主催の「神宮大麻暦頒布始報告祭」が執行され大阪府神社庁庁長から大阪府神社庁の12支部長に手渡されます。11月下旬、大阪府神社庁第4支部で「神宮大麻暦頒布始報告祭」が執行され、第4支部長から「神宮大麻」が鶴見神社宮司に手渡されます。以上の経路で「神宮大麻」が頒布されるのです。

ところが最近、全国的に「神宮大麻」の頒布数が減少傾向にあります。当社の場合を報告します。当社の氏子地域から近鉄電車や自動車で行けば3時間あまりで神宮に参拝できます。直接神宮で「神宮大麻」を受けられる人が多くなりました。

また氏子地域も大きく変化しました。当社の氏子は地縁血縁関係が濃厚な地域でした。ところが高僧住宅が建って人口が増えたのですが、その反面、郷土意識が薄いということでしょう。地元住民とは関わらない風潮があります。
 
それに加えて高齢化が一段と進み、「神宮大麻」を受けられるお方が減少したことも要因しています。人口減少が進みますと氏子と参詣者の減少になります。氏子が減れば祈願・授与品の初穂料、お賽銭も望めません。それは信仰の衰退にもつながります。

これは神社界だけではなく寺院も極めて憂慮すべき事態になりかねないと考えています。

確かにパワースポットや御朱印はブームです。しかし肝心な神社信仰の基本となる「神宮大麻」は減少しています。パワースポットや御朱印が家庭祭祀に繋がるような良い機会ととらえて活動することも考えなくてはなりません。

初詣の際には「神宮大麻」と「神札」をお受け下さい。

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48年の「野分祭」について

48年の「野分祭」について
昭和45年11月25日に東京の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で自決された三島由紀夫先生と森田必勝先輩の48年の慰霊祭「野分祭」が、平成30年11月24日、三重県四日市市大治田の森田先輩の墓碑の前で執り行われました。

昨年から四日市市大治田では森田先輩を主とした「野分祭」は当社が斎行し、三島先生を主とした「野分祭」が横浜市の鶴見神社で斎行されています。

今回も昨年同様に森田先輩の墓碑前の「野分祭」は「森田三島事務所」の伊藤好雄さんが祭主となっては執行しました。

神事は私が斎主となり斎行しました。森田先輩の墓碑前には森田さんのお兄様や元楯の会会員、志を同じくする人たち20名が参列されました。

三島先生と森田先輩の生き方は「大義」に生き「大義」に死すところにあります。この覚悟と志が両烈士の心構えであり、すべての基本でした。当時、森田先輩は25歳、祖国日本は激動の時代、決して安泰ではない。このとき自分は何をすべきかと常に考えられていました。それが昭和45年の正月の年賀状に現れていました。

     俺の恋人、誰かと思う。神が作った日本国

森田先輩の墓碑には死んだ後にも「祖国日本を守護する」精神を、この一片の石に鎮められ、日本が一大事の時には出かけて敵を討つ、という一念が込められています。肉体が亡んでも霊魂は亡んでいないのです。怨霊にさえなりかねない「最期の一念」を持たれて市ヶ谷の露と消えられたのです。

森田先輩は「七生報国」の言葉が好きでした。「七生」ならば「不朽」ということです。「大義」に生きて「大義」に死すことは「不朽」にならんがための「死生観」なのです。

日本が危険な時に同じ志を持つ者に乗りかかって役に立ちたいという、すさまじい「最期の一念」を両烈士はこの世に残されたのです。

今後も森田先輩の墓碑前に草莽の志士が訪れ、ここで涙を流し、決意を新たにされ、それにより歴史は動き、歴史は支えられて行くと思います。楠木正成の「楠公祭」があるように「野分祭」が定着します。明治維新を考えますと、「楠公」を忘れることは考えられないのです。次の世代が変革を志す時には「両烈士」を仰ぎ、それを心の支えとして活動される時代が来ます。

今年で私は68歳になりました。生命のある限り、動ける限り、毎年11月25日前後、墓碑前で「野分祭」を斎行したいと思っています。

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