影山正治先生

影山正治先生

代々木公園の西よりの一角、深い木立に囲まれて「大東塾十四烈士」の碑がたっています。敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治先生の父親である影山庄平先生と塾生十三名の若者らが割腹自殺をとげた場所であります。大東塾十四烈士については若い方々等にはご存知無い人もいらっしゃると思いますので、自刃に至る経緯を簡単にまとめておきます。

昭和二十年八月十五日、東京都渋谷区代々木西原では朝から一同謹慎、正午、塾神前にラジオを据え、影山庄平翁以下一同、禊の上慎みて玉音放送を拝聴、慟哭す。

塾長代行の庄平翁は「全く何と天子様に申し訳したらよいか、お詫びの言葉も無い。我々は本当に心から責任を感じなければならない。」と述べられる。

塾内においては、割腹自決して陛下にお詫び申しあげ、熱禱以って祖国再建の人柱に立つことを決意する。

八月二十五日、午前一時 庄平翁以下十四名は入念に禊を行った上で服装を整え、白鉢巻と刀を持って粛然として塾神前に集合。全員で軽い最後の食事をとる。午前二時お世話になった方々に対して一礼と最後の別れを行った上、出発。午前四時、代々木練兵場の通称十九本のけやきの西端で、全員見事に割腹自刃(内、吉野烈士は割腹後息があり病院に運ばれるが病院内にて絶命)


清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ

との共同遺書をしたため、東京代々木ケ原で自刃殉難したのでした。先代の有事も3名ほど含まれていました。先代も青酸カリを持ち歩きアメリカに辱められたら自決する覚悟でしていたそうです。

そのときの神葬式を行った人物こそ私の師匠横井時常でした。また不思議なことに先代と景山正治先生とは親交があり、私が伊勢市の皇學館大学に入学していなければ東京の国学院大学へ入学し青山の大東塾から通学していたのです。

昭和27年年11月、現天皇が皇太子のとき立太子礼の行事がありました。青山通りを皇太子の乗った馬車が通るというので、周辺の区立の小学生が一斉動員されました。日の丸の小旗を持たされた小学生らは、神宮外苑に向かって青山通りを進んだのです。途中、通りに面した青山学院の片隅に焼け残ったぼろぼろの長屋風二階建てがありました。入り口の半分壊れかけたガラス戸に「大東塾」の張り紙がありました。占領軍より廃絶させられた結果でした。

大東塾が青山のベルコモンズのある交差点に近いビルに転居したのは、東京オリンピックのための青山通り拡張工事のときでした先代が、昭和39年ごろ、新しいビルにおさまった大東塾を訪ねたことがありました。影山塾長が応対し戦前の影山正治先生の『天忠組への道』の話になりますと二人の表情は和らぎ、天誅組の支援援助した鶴屋の子孫が来たと喜ばれたそうです。

その後も先代と景山正治先生とは親交が続き、影山正治塾長が青梅の大東塾農場内で自死したのは、昭和54年でした。先代は大変ショックを受けしばらく塞ぎこんでいました。

影山正治(かげやま まさはる)先生は明治43年6月12日 、愛知県豊橋市生まれられ、國學院大學卒業され、保田與重郎に親炙し日本浪曼派の影響のもと民族派としての右翼活動、論評、作歌を続けられました。

昭和8年、斎藤実首相らの暗殺を計画し神兵隊事件に参加し下獄されました。
昭和12年9月、日本主義文化同盟を結成され、機関誌『怒涛』の創刊号には倉田百三、林房雄、中河与一らが寄稿しています。

昭和14年4月、國學院大学生を中心とする維新寮を「大東塾」と改称し、塾長に就任されます。顧問として倉田百三を迎えられました。
昭和15年、米内光政首相らの暗殺を計画し皇民有志決起事件(七・五事件)を首謀者として、禁固5年の実刑判決を受けられます。しかし「再生不能性貧血症」のため一時危篤状態に陥り翌昭和16年、刑の執行が免除され、昭和19年11月に応召して中国大陸に出征し、華北で終戦を迎えられました。

終戦後、大東塾の解散を命じられますが、その後、不二歌道会を設立し主宰されます。
昭和29年、大東塾を再建し東京都青梅市に大東農場を開かれます。民族派の重鎮として論評や作歌活動を続けます。先代も上京すると景山正治先生と面談し楽しく過ごしたみたいです。

昭和54年5月25日、元号法制化を訴え大東農場にて割腹の後、散弾銃により自決されます。享年68歳です。

戦前、「大東塾が動くときは昭和維新への決起の時」と言われたほどであり、右翼界・政界への影響力は極めて強かったのです。先代とよく皇居清掃奉仕に炒っておりました。

本部の大東会館は東京都認可の財団法人になっており、主に神道・国学・歌道関係者及び学生のための研修施設を設置運営しており。昭和40年、主に國學院大學の学生に対して学生寮を提供しています。もし国学院の学生になっていたならば、必ず大東塾に入れられていたでしょう。私の長男も国学院に入学していたならば大東塾に入寮させています。親子共々皇學館大學に進学しましたので、つぎは孫を大東塾から国学院へ通学させたいと希望しています。

先代からは十四名の烈士は、敗戦の責任を自らの命を神に捧げることで全うした。彼らには「自分達が死んでお願い申してこそ神様がお聞き下され、百年後、千年後には必ず必ず神風を吹かせて元の日本にして下さる」との信念を持って地上に霊魂を残しているのだ、聞かされていました。先代は「日本の国そして皇室をお守りもうしあげるのだという、一命を棄てての彼らの心意気に私達はこたえていかなければならない」と教えられていました。なんという清らかで凄まじい精神でしょう



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