48年の「野分祭」について

48年の「野分祭」について
昭和45年11月25日に東京の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で自決された三島由紀夫先生と森田必勝先輩の48年の慰霊祭「野分祭」が、平成30年11月24日、三重県四日市市大治田の森田先輩の墓碑の前で執り行われました。

昨年から四日市市大治田では森田先輩を主とした「野分祭」は当社が斎行し、三島先生を主とした「野分祭」が横浜市の鶴見神社で斎行されています。

今回も昨年同様に森田先輩の墓碑前の「野分祭」は「森田三島事務所」の伊藤好雄さんが祭主となっては執行しました。

神事は私が斎主となり斎行しました。森田先輩の墓碑前には森田さんのお兄様や元楯の会会員、志を同じくする人たち20名が参列されました。

三島先生と森田先輩の生き方は「大義」に生き「大義」に死すところにあります。この覚悟と志が両烈士の心構えであり、すべての基本でした。当時、森田先輩は25歳、祖国日本は激動の時代、決して安泰ではない。このとき自分は何をすべきかと常に考えられていました。それが昭和45年の正月の年賀状に現れていました。

     俺の恋人、誰かと思う。神が作った日本国

森田先輩の墓碑には死んだ後にも「祖国日本を守護する」精神を、この一片の石に鎮められ、日本が一大事の時には出かけて敵を討つ、という一念が込められています。肉体が亡んでも霊魂は亡んでいないのです。怨霊にさえなりかねない「最期の一念」を持たれて市ヶ谷の露と消えられたのです。

森田先輩は「七生報国」の言葉が好きでした。「七生」ならば「不朽」ということです。「大義」に生きて「大義」に死すことは「不朽」にならんがための「死生観」なのです。

日本が危険な時に同じ志を持つ者に乗りかかって役に立ちたいという、すさまじい「最期の一念」を両烈士はこの世に残されたのです。

今後も森田先輩の墓碑前に草莽の志士が訪れ、ここで涙を流し、決意を新たにされ、それにより歴史は動き、歴史は支えられて行くと思います。楠木正成の「楠公祭」があるように「野分祭」が定着します。明治維新を考えますと、「楠公」を忘れることは考えられないのです。次の世代が変革を志す時には「両烈士」を仰ぎ、それを心の支えとして活動される時代が来ます。

今年で私は68歳になりました。生命のある限り、動ける限り、毎年11月25日前後、墓碑前で「野分祭」を斎行したいと思っています。

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なぜ中国人は日本で常備薬やサプリメントを買うのか

なぜ中国人は日本で常備薬やサプリメントを買うのか

時々当社に中国の友人がやってきます。今年の7月・8月が頻繁にやってきました。彼等の目的はと買い物です。当社のすぐそこにイオンモール鶴見緑地店があります。そこで子供たちと孫は買い物する間に、友人は私と会話を楽しみます。

友人に彼等はイオンで何を買うの、と聞くと化粧品とサプリメント・常備薬と言います。こと医薬品だけを言えば、種類も豊富で圧倒的に中国の方が安いと思います。しかし粗悪品が多いので日本で買い求めたほうが安心なのです。

別の友人は今年の4月ごろ、人間ドックのツアーで山口県の下関の病院で健康診断を受診していました。聞けばかなりの高額の、人間ドックツアーでした。

中国人は日本の病院を希望する背景には、中国の評判のわるい病院事情があります。北京のある病院では夜明け前から長蛇の列ができます。しかし診察を受けられる人は少ないと思います。そこの病院には「診察予約券」が発行されます。しかし「診察予約券」はなかなか手に入りません。その理由は日本でいう「ダフ屋」が病院の事務方から「診察予約券」を違法に買い入れるからです。

ところで中国の病院は受付にならんで「診察料」と「カルテ冊子代」を支払います。そしてどの医師に受診するのか指定し、その医師から検査が必要だといわれたら、会計で「検査料」を支払い領収書を持って検査を受けます。検査結果を持って再び医師に診察を受け、注射や点滴が必要な場合、会計で「注射料」や「点滴料」を支払つて、領収書を持って処置室に行きます。

薬剤の投与が必要な場合、会計で「薬代」を支払い領収書を持って薬局に行きます。

簡単に説明していますが、検査や処置にも薬局にも長い順番待ちがあります。その結果、患者の検査結果を待たずに帰宅する医師もおります。

なぜこのようなシステムがあるのか、といえば「診察代」を踏み倒しの予防策です。

また有名な医師や教授には高額のお金が必要となります。もちろん手術前の金は当たり前です。私の友人は看護師や受付の人にもお金をわたしていました。その友人が病院食が口にあわないので近くのレストランで三食、食べていました。

日本の医療や老人施設が中国で人気なのは、優秀で質の高さがあるからです。医師も看護師も介護福祉士も丁寧な対応と敬語で応対するからです。「おもてなし」というサービス文化が根底にあるからです。

中国人は自国のシステムが悪い病院にかかりたくないので、病気予防に一生懸命なのです。

そのために常備薬やサプリメントが必要なのです。しかし自国の常備薬は効き目が強力でも副作用の心配、何よりも何が成分に入っているか、安全性に疑いを持っているのです。



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平成の御世の最後の「野分祭」について

平成の御世の最後の「野分祭」について
今月の11月24日、三重県四日市市大治田に出向き、正午から「野分祭」を執り行います。

昭和45年11月25日、三島由紀夫先生と自決された森田必勝先輩の慰霊祭、「野分祭」を斎主として先輩の墓前で神式で斎行します。

翌11月25日は横浜市の鶴見神社で三島先生の野分祭が斎行されます。

不思議なことに横浜の鶴見神社では例年、金子宮司が斎主として野分祭が斎行され、大阪の鶴見神社の宮司の私が森田先輩の「野分祭」を斎行しています。東と西の鶴見神社が斎行することは、先生や森田先輩の神霊の意向によるものだと思います。

今年で「野分祭」は48年祭になります。昨年は秋空のいい天気に恵まれ、楯の会の先輩、同志諸兄が参列されました。今年も晴天を祈り元気で先輩諸兄にお会いするのが楽しみです。

今年も祝詞を作成する時に涙が流れてきました。この時期、やたらと感傷的になります。NHKの大河ドラマ「西郷どん」を視聴しても、西郷隆盛を演ずる鈴木亮平が若き日の森田さんに見えて涙が流れてしまいます。

最終回になりますと、城山で西郷隆盛先生の自決される場面が出てくると思います。先生と森田先輩を思い出してしまうので視聴しないことにしています。

ところで日本は不思議な国だと思います。歴史と文化が守られている限り、万世一系の天皇陛下がおられる限り、「死ぬことによって蘇る系譜」があります。楠木正成・吉田松陰・橋本左内・西郷隆盛・日清から大東亜戦争の英霊は我が国の危機的な状況において蘇られています。

幕末の志士に筑前久留米藩の水天宮の神職、真木和泉守保臣がおられます。私は真木和泉守と同じ神職の家に生れていますので尊敬している人物です。彼は「今楠公」と呼ばれたほど楠木正成を敬慕していました。真木和泉守の日記を見ますと、毎年5月25日に執行されていた「楠公祭」のことが記載されています。

そのうちの安政6年(1859)5月25日のところに「25日、雨の日の正午、楠公をお祭する。しかし午前に血を吐いた。おそらく肺からの喀血であろう。量は多くないので、心配はない」この状況でも「楠公祭」を斎行されたのです。

真木和泉守は、文久3年(1863)5月25日の「楠公祭」を山口県の下関で斎行しました。この日の前後、下関は大変な緊張状態でした。23日は下関の砲台からフランス軍艦、26日にはオランダ軍艦を砲撃しています。

翌元治年(1864)5月25日の「楠公祭」は山口の隣の湯田で行われました。その2ヵ月後の7月21日に真木和泉守は禁門の変の戦いに敗れ、天王山で同志16名ともに自刃されました。

明治維新を考察しますと「楠公」の精神を抜きでは考えられません。そのことから「野分祭」の意義を語り継ぐことにより、次の世代が「三島由紀夫先生と森田必勝先輩」を仰ぎ、それを心の支えとして日本を日本らしく改革してくれると信じています。

私は両烈士から学んだことは「誠」という言葉でした。特に森田先輩は「誠」という言葉が好きでした。一片の「誠」は小さくとも、それは歴史を動かし、国の命運を支えるものです。

真木和泉守の神職としての生き方の中心は「誠」でした。「誠」には道を万世に開く力が存在します。

元楯の会の先輩たちが「誠」を持ち、繰り返し繰り返し、変わりなく同じ年に同じ祭り、「野分祭」を続けてこられました。感銘のほかはありません。「野分祭」を斎行することの意味深さをかみしめて、今回も真木和泉守になりきり斎主として斎行させてもらいます。

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