森田必勝先輩とそっくりな橋下徹市長候補

森田必勝先輩とそっくりな橋下徹市長候補
昭和45年11月25日水曜日、三島由紀夫先生と森田必勝さんが自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決されて、今日で41年目になります。いわゆる楯の会事件です。最近では東京の神社でも憂国忌が行われるようになりました。本日、横浜市鶴見区鶴見神社においては旧楯の会の会員による野分祭が行われると思います。関西では各地の三島研究会の関係者が憂国忌を行うと思います。

ところで事件当時、私は20歳で皇學館大学学生でした。昭和45年9月中旬に学生寮に電話がかかり、墓参りに四日市に来た、と言う電話が森田さんからの最期の連絡でした。当時の皇學館大学の学生や先輩に楯の会のメンバーが結構いました。

当時、新左翼系の全学連が大半を占める中で、「楯の会」・日本学生同盟、全国学協、生学連(生長の家学生部)などで活躍した学生たちを新右翼と呼ばれていました。私は皇學館大学国防研究会に属していました。全国学協の吉田さんに可愛がられていたので、全国学協に属していました。

ところで新右翼通称民族派と呼ばれた人たちも41年経ちますと、各分野で活躍しています。政治家になった人、事業を起こした人、今も現役なのが一水会の鈴木さん・維新政党の魚谷さんがいます。総勢にしますと200名足らずの人数ですが、還暦を過ぎても、過去の楯の会事件を決して忘れることはありません。

実は私も41年間、悩み通してきた人生でした。一人の作家三島先生と森田さんが自決したにすぎないあの日のことを何時までも忘れることができないのです。今まで死に急ぐことも有りました。人に言ったら笑われるかもしれませんね。私以上に悩んでいた人物に、特に森田さんと親しかった鈴木邦夫さん・三浦重周や阿部勉さんがおられます。阿部さんは楯の会1期生で森田さんと同じ早稲田大学出身です。考えれば鈴木さんも三浦も早稲田大学です。阿部さんは13年前に膵臓がんで亡くなり、6年前の12月には三島由紀夫研究会を主宰し、憂国忌を仕切っていた三浦も自決し、早稲田大学では残っているのは鈴木さんと楯の会の1期生の福田俊作さんの二人だけになってしまいました。

その中で一番三島先生に信頼されていたのは阿部さんでした。阿部さんも福田さんも前衆議院議員井脇ノブコさんも私が18歳のときに坪井一夫先生に連れられて奈良県吉野での合宿で紹介されました。阿部勉さんの第一印象は俳優の故成田三樹夫さんとよく似ているなあ、と言うことでした。福田俊作はスキンヘッドで美男子、当時の井脇ノブコさんは拓大の院生でしたが恐いイメージはなく優しい人でした。

阿部さんの発案で相撲をしょうと言うことになりました。福田俊作も花谷もバンツ一枚になれ、といわれ男10名ぐらいバンツ一枚の格好で相撲とることになりました。そのとき井脇ノブコの前で服を脱いでゆくのですが、彼女は逃げもせずにじっと男たちが裸になる姿を見つめていました。私は「井脇さん、恥ずかしくないのか」というと「花ちゃん、私は水泳部の顧問もしているので、男の裸姿には慣れているの」ということでした。

相撲は勝ち抜き戦でした。相撲は鶴見では河内相撲が盛んな所で、私5歳ぐらいで初土俵していますので、相撲の技も結構教えてもらっておりますので自信がありました。坪井先生の予想では一番福田俊作・二番花谷・三番阿部さんということでしたが、結果は阿部さん・福田俊作・花谷という順番でした。結構、阿部さんは強いのです。その晩、吉野館で宴会と言うことになりましたが、坪井先生は若い人たちと飲むのが大好きで全員がベロベロになるまで飲みました。旅館の酒とビールがなくなるまで飲んだのですから、当然二日酔いになりますが、やさしく介抱してくれたのが井脇さんでした。

それから上京することがあると阿部さん泊めてくださいと電話で言うと、俺のアパートには福田俊作がおり鈴木邦夫もいるので、森田ところへ泊めてもらえと言うことになりました。高田馬場の森田さんのところに泊まることになりました。キャバレーの呼び込みのアルバイトをしているということで、とにかく帰りが遅かったのを覚えています。

楯の会事件後の阿部さんは、酒びたりで新宿ゴールデン街の帝王とも呼ばれたことがあるほど毎日飲んでおられました。三島先生や森田さんからの信頼は絶大でしたから、なぜ自分だけが残されたのか死ぬまで自問自答されていました。早稲田大学卒業後も就職もせずに浪人生活でした。あるときは古本屋の亭主、あるときはマスコミ研究会を立ち上げたりされていました。

鈴木さんが一水会を立ち上げるときに、坪井先生が主催されていた関西在住の民族派団体の連絡会・三曜会をヒントに名前を考えました。三曜会は毎月第三木曜日に会議を開催することから名づけられたので、阿部さんは毎月第一水曜日に会議を開催することで一水会と名づけ鈴木さんが結成しました。この一水会という団体は現在でも活動しています。活動が100名ほどですが、機関紙「レコンキスタ」は3000部ほど購読者がいます。維新政党の魚谷さんは、いつも「うらやまし」と言っていました。

また阿部さんは魚谷さんが民族派の政党を結党するときに協力し、平成7年に立ち上げた維新政党初代組織委員長になってもらいました。参院選を裏方で支えてもらいました。さらに亡くなられた阿部さんとは不思議な御縁で離婚されて奥さんに引き取られた息子さんが神社本庁に勤務されており神社界に身を置く私には近く感じています。

何かの本で「阿部勉・最後の浪人」というのがありました。阿部さんと同じ楯の会の関係者も41年も経ちますが、思いは今も変わらないと思います。福田俊作は鍼灸師の資格を取り穂高養生園経営していますが、思いはかわりません。鈴木さんも魚谷さんも今も変わらずに変革を目指しています。

ところで昨年3月、中国の全人代の大物が来日されたとき、大阪市長の平松さん・大阪府知事の橋下さんがベイエリアの南港を案内しました。そのとき橋下さんと御話しをする機会に恵まれました。その時、びっくりしました。自決された森田必勝さんと同じストレートにスバズバと大物であろうが小物であろうが上下の隔たりなくしゃべる口調がそっくりでした。実に驚きました。まるで生き写しでした。人の名前を覚えて忘れないところもそっくりです。暗記力のよいところも同じです。自分が正しいと思ったことはすぐに実行するところも同じです。

さらに不思議なことに森田さんと学部こそ違え同じ早稲田大学でした。森田さんが40半ばまで生きておられたら、橋下さんと同じようなタイプになったと思います。即断即決が森田さんの生き方でした。しかしその裏には緻密で繊細な考え方を持っておられました。森田さんは日本の変革、つまり自衛隊によるクーデターを目指していました。橋下さんの大阪維新の会は大阪都構想で大阪の変革を目指しています。変革という意味では同じです。森田さんが生きておられて橋下さんとお会いしたら同窓生ということもあり、共通するところが多くあり師弟の関係になっていたかも知れませんね。



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松谷祐子

はじめまして、宮司様。
私は三重県在住の松谷祐子と申します。
森田必勝さんを検索して、貴ブログに辿り着きました。私は個人的に橋下徹が好きではありませんでしたが、森田さんに似ているとの記事を拝見し、親近感を覚えました。息子が皇學館大学の卒業生です。
by 松谷祐子 (2012-05-21 20:39) 

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