万葉集の山上憶良

万葉集の山上憶良

万葉集には七夕を歌った歌が132首もあります。万葉集における七夕歌はその後の王朝和歌に大きな影響を及ぼしているように思われます。中国から伝わった七夕説話は日本神話と結びついて独特のものを作り出しました。

山上憶良にも七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻8にまとめて載せられていいます。人生の苦悩を歌い続けた億良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるですが、すべて自分の意思で作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われます。だが、そこにも億良らしい側面がのぞいていると思います。その証拠に

第5巻803番
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも

と歌っています、訳しますと、白銀も黄金も宝玉も、そんなもの何になろうか、子どもには及ぶべくもないと。子煩悩の憶良の素直な気持ちが表現されていている有名な歌ですね。次に七夕の歌です。

第8巻1518番
天の川 相向き立ちて 我が恋ひし君来ますなり 紐解き設けな

訳しますと、天の川に向き合って立っている。私の愛しいあの方が来る。紐をほどいて寝所の準備しよう、という歌です。
第8巻1529番
天の川 浮津の波音 騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも

訳しますと、天の川の天に浮かぶ桟橋の波音が聞えてくるよ。 私が待つあの方が舟を漕ぎ出したんだね、という歌です。

山上憶良は庶民派の歌人だと思います。 40歳を過ぎて無位無官だったものの、中国の唐への遣唐使として渡りました。遣唐使のメンバーに選ばれた後は、官位をもらって出世しました。伯耆国(鳥取県)や筑前国(福岡県)の国司を歴任しながら、和歌を作った人物です。万葉集の中に山上憶良の歌は、凡そ70首ほど収録されていますが、その内の半数以上が、筑前守時代、大宰府の大伴旅人らと歌の道で交わっていた頃の作品です。
山上憶良の歌は、庶民性の故に、後世の歌壇からは、あまり評価されなかったのです。しかし江戸時代になって、山上憶良の価値を見出したのは、賀茂真淵です。憶良は、官人としての栄達には恵まれなかったのですが、農民たちの苦しみや、友人たちの悲しみなどを共感することが出来た人物だと思います。賀茂真淵は、万葉集の研究を通じて、山上憶良のような上代人の素朴な人間感情の中に日本人の魂の伝統を発見したのでしょう。

子らを思う歌は、第5巻802番の

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠(やすい)し為さぬ

訳しますと、瓜を食えば、子供にも食わせてやりたいと思う。栗を食べれば、まして子供のことが偲ばれる。子供というものは一体どこから来たのだろうか。子供の面影が目の前にちらついて、夜も安眠できない。この歌の反歌が、前述の「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉(たま)も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」です。私の今の心境を山上憶良の歌で言えば次の通りです。ただ山上憶良は妻を喪った悲しみをストレートに表現しているのですが、人の心や複雑な人間関係を考えてストレスが溜まりますと、この歌が胸に響くものがあります。

第8巻793番
世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

訳しますと、世の中とは、空しいものだと知るにつけ、さらにますます悲しみが深まってしまう、というものです。万葉集の歌に「空し」の語を使った歌は5例しかありません。また。「悲しき」「悲しも」などと結ぶのが萬葉集の慣例ですが、「悲しかりけり」という表現されているのは、この歌のみと大学時代の恩師西宮一民先生は言っておられました。
世の中が空しいとするのは仏教の考え方です。この時代には仏教の教えが浸透していた証拠の歌にもなります。
平成21年2月、私が胃ガンと宣告されたとき、万葉集を読んで随分と救われました。その中で山上憶良が重病となったときの歌が心強く思いました。


第6巻978番 
士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして
 
訳しますと、男子たるもの、このまま空しく世を去ってよいものか。いつのいつの代までも語り継がれるほど立派な名を立てないまま、と言う歌です。山上憶良は大伴旅人に後れて奈良に帰京し、天平5年、74歳で没したと推定されています。この歌は天平5年の作、つまり彼の死の直前の歌です。

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