興亜観音と七士の遺骨

興亜観音と七士の遺骨

米中英ソ等の戦勝国が東京裁判で裁き、票決により昭和23年12月23日、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎等の7名にGHQ(連合国總司令部)が絞首刑を執行しました。
東京裁判(極東国際軍事裁判)では26人が「A級戦犯」として起訴され、7人が処刑され

処刑後の昭和23(1948)年12月23日、米軍による久保山火葬場(横浜市保土ヶ谷区)で米軍によって火葬されました。この時、遺骨は米軍の手にあり、処刑された後、殉死した7人が英雄にまつりあげられるのを恐れた連合国は、遺骨を持ち出すことすら禁止し、飛行機で空中に遺骨を撒き散らす予定でありました。

このことを知った日本人の係官は幸いクリスマスの時期であったため、監視の目をくぐりぬけて遺骨を密かに持ち出しました。七士の間違いの無い遺骨が、日本人の手に入ることができたのであります。そして火葬場のすぐ隣の禅宗の興禅寺に仮埋葬されました。

久保山火葬場は無論、日本国全体が米軍占領下にあり、厳重な警戒網を突破して懐中電灯を点滅しつつ竹竿の先に缶等をつけ苦心の末、とうとう遺骨を全部を収めたといいます。

しかしながら興禅寺にいつまでも隠匿しておく訳にはいかず、いつ発覚して持ち去られ、いかなる処罰にあうか知れない状況下でした。そこで東京裁判の弁護士を勤めた三文字氏や林逸郎氏等の人々や七士の遺族の人々が極秘のうちに相談した結果、遺骨を熱海の松井家にしばらく移すことになりました。 

その後、三文字氏等が「興亜観音」を訪れ「知り合いの、ある人の遺骨ですが、時期の来るまで、誰にも分からぬ様に、秘蔵して置いて貰いたい」と依頼されました。

昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコで講和条約が整い、以後は、米軍の日本取締りは非常に緩められた。その後、七士の遺骨の持ち出しの秘話や、またその遺骨が興亜観音の境内に埋蔵されている事なども、マスコミに報道されるようになり、興亜観音に七士の遺骨を弔う人も多くなったということでした。

興亜観音にある「七士之碑」は、昭和34(1959)年4月19日に建立されたもので、碑の文字は元総理・吉田茂氏の筆によるものでした。興亜観音像は、昭和15(1940)年2月、時の親中派の陸軍大将・松井石根(まついいわね)の発願によって、日中戦争での日中両軍の戦没者をひとしく弔慰、供養するために建立されたものでした。

更に又、昭和35(1960)年8月16日には、愛知県幡豆町の三ヶ根山に「殉国七士墓」が建立せられて盛大に墓前祭が行われました。 そこに埋葬された遺骨は、明らかにこの興亜観音にある骨壷から香盒(こうごう)1ヶ分ほどを分骨したものであり、三文字氏、林逸郎氏等の発起されたものでした。碑は、太平洋そしてその向こうのアメリカに向けられ建っています。

先の戦争で犠牲となった人々を慰霊する中心施設として「靖国神社」があります。A級戦犯とされる「殉国七士」も祀られているのは周知の通りですが、現在の日本の姿を思うとき、戦争で犠牲となった人々の上に成り立っている事を忘れてはなりません。それと真実、「殉国七士」が戦犯であるかどうか、GHQ(連合国總司令部)の東京裁判の判決を破棄し、
日本国が主体となって日本人による裁判をすべきであると私は考えています。アメリカ軍による空襲や原子爆弾の無差別殺傷行為・集団的殺戮が肯定されている現下の日本では、東京裁判の再審は無理かもしれません。先の戦争は全面的に日本が悪人扱いされ、アメリカやイギリスの連合国が正義の味方という歴史観は、アメリカのイラク戦争やアフガニスタンへの介入をみても、遠い過去のことのように思えません。なぜならば、いまだにアメリカは正義のために、という旗印の下で集団的殺戮の争いを繰り返しているのです。

興亜観音は、永遠に集団的殺戮の争いを繰り返さないために建立されているのです。現在でもアメリカのアーリントン墓地では、1ヶ月の間に何十回も戦死者のための礼砲が鳴り続けています。歴史を持たないアメリカ国民は、血で塗られて勝った独立戦争の歴史観だけが生き続けています。




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