「本気」とは何か

「本気」とは何か

平成22年7月17・18日は鶴見神社の夏祭でした。大変忙しく体力の限界を感じました。17日の宵宮には横浜市より三島由紀夫先生の楯の会の第1期生が神社に訪ねてこられました。彼は私より少し年上ですが、若いころより知っております。二人とも還暦を越えてしまっています。お互いに昭和45年11月25日は忘れられない出来事でした。私は森田さんを失い、彼は三島先生と森田さんの二人を亡くし、消えることがない過去の出来事でした。
 このように長生きができるとは考えもしませんでした。しかし消えることができないのが三島先生の最期の叫び声です。

自衛隊にとって健軍の本義とは、なんだ。
日本を守ること。
日本を守るとはなんだ。
日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。
おまえら聞け。聞け!
静かにせい。静かにせい!
静粛に聞け!
男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ!
いいか!
いいか!

それがだ、いま、日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなければ、憲法改正というものがないんだよ。
諸君は永久にだね、ただ、アメリカの軍隊になってしまうんだぞ

かって東京都知事・故青島幸男氏は三島先生の割腹を聞いて 、「オカマのヒステリー」と揶揄しましたね。それも青島自身はTVで楯の会制服を着て 「横の会」と称しコントを行ないましたね。このことは、私たちは決して忘れません。早く亡くなられてよかったですね。

三島由紀夫先生に影響を受けたと指摘されているアーティストの一人に坂本龍一がおられます。 彼の父親は三島先生の仮面の告白、金閣寺などを世に送り出した河出書房の三島先生担当の名編集者として有名です。おそらく父親から三島先生の逸話などを聞かされたことでしょう。
坂本龍一が映画「戦場のメリークリスマス」(大島渚監督)で演じた将校も三島先生の造形だといわれています。このことも私たちは覚えています。

三島由紀夫先生に影響を受けたと指摘されているアーティストの一人に、日本のアニメ「巌窟王」の音楽を担当したジャン・ジャック・バーネル(フランス人)がいますが、ジャンは70年代の伝説の英国パンク・ロック・グループ、ストラングラーズの名ベーシストでした。

 1978年12月に単独来日した際にジャンは、「なぜ日本はこんなアメリカ・ナイズされているのか、日本の若者は眠っているのか」と怒りまくったという逸話があり、 「米国資本の市場戦略は安逸な快楽を与え、人々の感性を鈍らせることから始まっている。それはヨーロッパの伝統的な明晰さにとって第一の敵といえるが、 日本人もそれに毒されている自分たちを自覚し民族の知的遺産である伝統、それは魂(スピリット)といっていいが、それを救出しなければならない。」と誌面にメッセージを残しています。


三島先生は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター計画を実行することを決意していた、と思います。 発案は森田さんが行った、と思います。

三島先生や森田さんが、計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていないことは知っておられたと思います。それが完全にゼロとなるまであきらめなかったことの証明が

自衛隊が立ち上がらなければ、憲法改正というものがないんだよ。

と云う悲痛な言葉になって現れています。

しかし森田さんには最後まで力を尽くす誠があります。森田さんはあきらめの色を見せて、三島先生の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう、と思います。 その意味でいえば、森田さんは真の武士であった、と思います。

岡潔先生が述べておられます。

三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、
天皇制が大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやってみせているし、本当に偉い人だと思います。

このことも私たちは感謝しております。森田さんが下宿しておられた小林荘を訪ねたときに森田さんから「全千島、南樺太奪還」を熱く語られていたのが思い出します。いつのまにか政府は「4島返還」になってしまいました。事件後、数年経て三島先生と一緒に行動を起こし、残った三人のうちの二人古賀浩靖、フルコガさんと東京で偶然会った事がありました。私に「心配させたね」という言葉をかけて頂いたことがありましたが、私は何をおっしゃる「1ラウンド終了しただけですよ」と、答えたことを鮮明に覚えています。

平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日でした。 この日、奈良県橿原市にあります神武天皇陵を参拝しました。私は不思議な幻影を見ました。参拝を終えた集団に森田さんの顔にそっくりな青年がいました。彼は行儀よく歩き、無表情に私の顔を見つめていました。「これから激動の日本が来る、生きながらえて日本の大義のために生きよ」という言葉が聞こえて来ました。
大葬から22年も経ちました。還暦も過ぎました。われながら長生きさせてもらいました。横浜市よりやってきた楯の会の第1期生の友人に、「そろそろ決着をしないと申し訳ないよ」といって別れました。

昭和45年11月25日、当時防衛庁長官であられた中曽根康弘氏の裁判記録を記載します。

訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が言葉で とやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なることと思う。
これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを我々に 言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに 適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、 歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう――そういう期待でやったのではないかと私は把握した。



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