死を:決意した時

死を:決意した時
もし、「あと半年の命」と医師から宣告されたら、すぐには受け入れることはできないでしょうが、それなりの時間があれば死をあきらめることができる人は多いと思います。
それから、いろいろなことを考えるでしょう。その際、きっと今までとは違った考え方になるのだと思います。

 私は初期とはいえ胃ガンに2年前になりました。正直、医師から「胃ガンやで」と言われても恐くもなく、淡々とできました。一度も二度も「この若さで亡くなるのか」と思ったことが10代から30代後半までありました。この世に生を受けたとき、私は仮死状態で生れました。花谷家は私で42代目になりますが、男子は若死にが多く育ちにくい家系でもありました。私も先代から「勉強せよ」とは言われたことがなく、当時の氏子総代も「お宮のボンは生まれつき身体が弱いから、勉強よりもスポーツで身体を鍛えさせたほうがよい」と先代は忠告されていました。実際に幼いころは、何度も病気で死にかけています。

中学生のころは、どんな病気で死にかけても、学校に行き皆勤賞まで貰いました。一度は先代が自動車で39度の熱の私を中学に連れて行き、「この息子はここで死んでも構わないから、授業をうけさせてほしい」と校長に談判して行かせました。それでも私は保健室で寝込むことは恥ずかしいと思っていたので、授業を受けていました。

世の中、何度も死にかけますと、今まで「当たり前」と思っていたことが、有り難いこと・幸せなことと思えてきます。
 
今まで当たり前にできていたこと。有って当たり前のもの。当たり前に利用していたもの。私がいるのが当たり前に思っていた人の存在。当たり前に人がしてくれていたこと。生きていること。すべてが実感できます。

そして自分以外の「命あるもの」にも、命の尊さ・存在価値があることに気づくことができ、それを美しいと思えるようになります。さらに自ずと自然や生物・動物への好奇心も湧いてきます。先代は私のために、犬・猫・猿・ミツバチを神社の中で飼っていました。
後日、姉の証言で、猫や犬は鍼やお灸の実験用に、ミツバチの鍼は針治療に利用できないか、と考えた様子です。

しかしながら私の場合、皇學館大学の学生の頃から、還暦を過ぎた年寄りの仲間に入った時点で、三島先生や森田さん、大東塾の影山先生の自決、そして野村秋介氏の朝日新聞の社長室でのピストル自決、多くの同志たちは地下に眠っています。考えれば、「正義の日本を取り戻すため」に亡くなられた同志たちを見ておりますと、草莽の志士として、自分の死に場所を改めて考えるようになりました。

このように病気などで死を宣告されたり、死を決意したとき「人が変わること」は実際にあり得るのです。だとしたら、特別に何もなくても、そういうことをわかるようになれたらいいのではないでしょうか、とケチな浪速の商人の友人は私に意見します。彼の意見に従うと、お釈迦様の最期の言葉のように「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」と悟らなければなりませんね。

友人のケチな浪速の商人は、私を心配して今日の大阪府柏原市にある兼務している神社の午後9時から執行される旧暦の旧正月の祭礼について来ました。そして一言

生きていてこその夢。

この言葉に私は涙しました。そして

お前なあ、夢に酔わんと、常に足元を見ていけ。命を懸ける、この言葉は簡単に使うな。一人の命ないんやあで。命を懸けて取り組むほどのことなんて、そんなにあるもんやないぜ。きっと、それは大切な人の命を守るときくらいやで。ほどほどでええから、力抜いて、一生懸命にならずに、楽しんでいかなあ

と言われました。その後、友人は面白い言葉を吐きました。

お前なあ、皇學館大学を卒業して神職では先代よりも早く位の高い地位をもらって。葬式代は先代よりかかるのやで。わいはお前の友人やから高額の玉串料、払わないとあかんのやで。どうせ死ぬなら、飛行機事故で死ねアホ。ここまで来たガソリン代は、わいところの商品を買うことで許したろ

私は、この友人の言葉に何か違和感を抱きつつも、適当に流してきました。しかし、この違和感とやらをよくよく考えてみると・・・分かりました。


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ムスヒ

守って、くださいね。 ”いのち”。
by ムスヒ (2011-02-05 11:55) 

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