相撲と八百長の関係

相撲と八百長の関係
日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が起源とされています。また「日本書紀」によると、第十一代垂仁(すいにん)天皇の御前で野見宿弥(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が日本一を争ったと、記されている結果は野見宿弥の勝ちで肋骨を蹴り折り、さらに腰の骨を折って絶命させたとの記載があります。当時の相撲は正に命をかけた男の闘いであったと思われます。

「すもう」の語源は争うという意味の大和言葉の「すまひ」が「すまふ」となったと言われております。「す」は、武器を何も持たないで素手で戦う、という意味で、「まひ」「まふ」というのは「負けない」「争う」ことを意味しています。

古代には格闘技としての意味合いが強いものでした。その後平安時代には力のある男性が神前で天下泰平、子孫繁栄、五穀豊穣、大漁を祈り、その力を捧げる神事として確立しました。続いて鎌倉時代以降の武家社会には武道として奨励されることになり源頼朝や織田信長は度々上覧相撲を催しました。更に江戸時代には芸能や職業スポーツとして位置づけられ、今日の大相撲の基礎が築かれることになりました。

今回の八百長の相撲事件は残念でなりません。私の奉職する鶴見神社は昔から「河内相撲」の盛んな所です。子供のときは、町会に土俵をこしらえて男の子は幼いときから子供用の廻し(まわし)を付けて参加していました。私は相撲ほどお金がかからず身体と精神を鍛えられるものはないと確信しています。ただ円をかければ誰でも遊べます。誰でも遊べる相撲を子供たちに復活させたいと常々思っていました。神社の境内は狭くて土俵を作る余地などありませんが、離れたところでも土地を購入して土俵を設け、子供たちを含めて「河内相撲」を復活させたいと思っていました。今回の事件は残念でなりません。

ところで八百長という言葉も相撲から由来します。八百長は、明治時代の八百屋の店主『長兵衛(ちょうべえ)』に由来しています。長兵衛さんは通称「八百長」といい、相撲の年寄『伊勢海五太夫』の碁仲間であったそうです。碁の実力は長兵衛さんが勝っていたのですが、商売上の打算から、わざと負けたりして勝敗をうまく調整し、伊勢海五太夫のご機嫌をとっていたのです。後に勝敗を調整していたことが発覚し、わざと負けることを相撲界では「八百長」と言うようになったのです。
やがて、今回のように、事前に示し合わせて勝負する意味も含まれるようになり、相撲以外の勝負でも「八百長」という言葉は使われるようになったのです。.



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