建国記念日と建国の理想

建国記念日と建国の理想
建国記念の日の前身である「紀元節」が定められたのは、 西洋文明が流入してきた明治時代です。「紀元節」は、「日本書紀」による 神武天皇(初代天皇)が橿原の地(現在の奈良県橿原市)で 大和の国を興した即位の日(日本の紀元の日・歴史が始まる最初の日)のことをいいます。

さらに暦が太陰暦から太陽暦に改められるのと同時に、「紀元節」は皇紀元年(紀元前660年)一月一日を旧暦から新暦(太陽暦)に換算して求めた2月11日に定められました。また、同時に西洋諸国の用いている西暦とは別に皇紀が定められました。初代天皇である神武天皇が即位したとされる 西暦紀元前660年を元年とする日本独自の年の数え方です。ちなみに今年の平成23年、西暦2011年は、神武天皇即位紀元(皇紀)2671年です。ほとんどの皇學館大学の同級生の年賀状には、「皇紀2671年、新年おめでとう」という内容です。いまだに皇暦を使用しています。

紀元節は明治5年(1873))から昭和23年(1948)年まで祝日とされ、四大節(新年の天皇様による四方拝・紀元節・天長節・明治節)の一つとされていて、当日は、宮中三殿において天皇陛下により紀元節祭が親祭されるのをはじめ、全国の神社で「紀元節祭」と呼ばれ祭事が催されていたほか、また全国の小学校や各種団体においても「建国祭」として祭典が行われていました。

しかし昭和23年4月施行の祝日法で、「紀元節」は廃止されました。「紀元節」の廃止には、日本の神話、歴史、天皇と 国民のつながりを否定しようとする意図が感じられ、「紀元節を認めることにより、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、 再び米国の脅威となるのではないか」というGHQの強権で廃止となりました。日本はGHQの占領統治下にあり、重要な法律を日本人の意思によって作ることが困難でした。

 昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し主権が回復すると、建国記念の日を復活しようとする動きが顕著になりました。 国の独立回復にあたり伝統を保ちたいと考えた政府は世論調査を実施しました。その結果、祝日に残したい日は、1位は正月、2位は天皇誕生日、3位は紀元節でした。当時の首相吉田茂(元皇學館大学総長)は「独立に際し、紀元節の復活から手を付けていきたい」と国会で答弁されました。

神社の社頭などで署名運動を開始し、紀元節復活運動は続けられ、やがて多くの国民の支持や協力を得て「建国記念の日」として 紀元節を復活させるための法案が国会にも提出されるようになりました。しかし法案の通過は容易ではなく、復活までには10年以上の歳月を要しています。9回も廃案になる憂目を見ながらも、ついに昭和41年(1966年)6月の国会で祝日法が改正され、「建国記念の日」と名称を変えて復活することになりました。
私はその昭和42年2月11日当時、浪速高校の高校生でした。先代と共に学院神社で建国記念日の式典に参加し、「紀元節」の歌を歌いました。先代も校長先生・理事長も涙を流しておられた姿が忘れられません。終了後、学生全員にお供えされました饅頭を頂いたことを覚えています。

建国記念の日は、敗戦後、日本人の努力で取り戻した日と言えます。それは、日本の歴史の原点を取り戻した第一歩にもつながるのです。

 私は「歴史が歩いている」という言葉が好きです。「歴史」とは、単なる時間的経過のみを指しているのではありません。一つの目的意思を持ち、それに向かって進むとき“歴史”が生まれ、「歴史」が刻まれるのです。個人でいうならば「志」という目標を立てて歩みはじめたとき、その人の“歴史”が立派に始まると思います。一国の歴史は、建国の理想がうち立てられたときに始まります。その理想を二千六百七十一年、ご皇室を中心に日本民族は歩み続けてきたのです。したがって、「歴史が歩む」ということは、「建国の理想が歩んでいる」ということを意味するのであります。確か昭和51年の昭和先帝陛下のお歌会始に

  わが庭の宮居に祭る神々に世の平らぎを祈る朝々

と歌われました。このお歌の精神こそ、歴代天皇の御心であり、建国より代々受け継がれてきた建国の理想ともいうべきものです。「日本書紀」によると神武天皇は橿原建都に際して 建国の詔「橿原建都の詔」を述べています。

八紘を掩いて宇と為む(はっこうをおおいていえとせむ)こと、また可からずや

と言われました。解釈しますと、広い天地四方の国々が、一つの屋根の下の家族のように仲むつまじく、暮らそうではないか。なんと、楽しくうれしいことではないか」という意味です。このように平和になることを、この国の建国者、神武天皇は、切望し祈念しておられます。

これを「八紘一宇」というのですが、戦前の軍部により、頻繁に使われた経緯があります。このことがあった為に、左翼史観の人たちは軍国主義につながるということで、建国記念日を反対しています。この言葉を使用することについては、確かに戦前の軍部の誤った解釈があったと思います。

しかしながら「世界民族が一つになって平和に暮らす」これが日本国の建国の理想であり、日本人の正しい道徳心の根幹と思います。 「八紘一宇」という言葉は、英語では

Universal brotherhood

「世界同胞主義」と訳されます。戦前のわが国の外交文書で公式に、この用語が使われました。「世界は一家、人類みな兄弟」という考えがよく表現されています。「記紀」が描く日本国は、こうした高い理想をもって始まった国です。

日本人は、少なくとも千数百年以上もの長い間、そのように信じてきました。天皇さまを中心とした家族的共同体を基盤とした国家が築かれ、「公と私」の構造と倫理が形成されました。それは、聖徳太子による十七条憲法にも表され、各時代へ経て受け継がれ、幕末の危機において再生し、変革の原動力ともなりました。明治維新において掲げられた「五箇条の御誓文」や「教育勅語」などもまた、神武天皇の肇国(ちょうこく)の精神を受け継いで、明治天皇が発せられたものでした。

建国記念日を目前にして記述しました。



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