人間魚雷・回天について

人間魚雷・回天について
皆さんはご存知ないと思いますが、黒木博司海軍少佐という人物がおられます。人間魚雷・回天の発案・創始者、黒木博司海軍少佐です。岐阜県下呂出身で昭­和19年9月7日、山口県周南市徳山湾大津島、瀬戸内海での人間魚雷・回天の 訓練中に享年22歳で殉職されました。

楯の会事件の公判中に騒いで警察に拘束されたことは前述のブログで記述しましたが、伊勢市の皇學館大学に戻った昭和47年頃のことです。恩師の荒川久寿男先生から呼び出され「私の著・維新前夜の続編を書きなさい。君は思想的にあまりにも過激、東京帝国大学の後輩の三島君を慕って死に甲斐を見出そうとしているけれど、生き甲斐も見出して頑張って欲しい」と言われました。そして先生から「私の知り人で、回天、あの人間魚雷を考え出した人物がいる。不幸にして、最初の訓練のときに故障して、瀬戸内海に沈んで殉職された。沈没した中で克明に遺書を書きつづけたのである。その遺書の写しがこれである。読みなさい」と頂いたのです。

その遺書を読むたびに、感動というか、涙が流れて表現できないほど貴いものでした。当時の私は20歳でした。その二つ上の22歳で殉職された黒木少佐の日記、「鉄石之心」と題されたものを拝見させてもらったことがあります。昭和18年4月1日から昭和19年3月31日にまで、1年間の日記です。私の日記と違いすべて赤い字で書かれています。それは血で書かれた血書でした。内容はすべて3行、第1行に必ず「天皇陛下万歳」と書かれています。第2行に、その日の出来事が記載されています。第3行には必ず、何年何月何日記すとあって花押がありました。昭和18年5月25日の楠正成の戦死した日、神戸市の湊川神社の楠公祭の日ですが、「楠子論」と書かれていました。いわゆる七生報国の精神です。荒川先生から黒木少佐の清らかな熱血を忘れるな、そして心を清めて正しい道を歩みなさいということを教えてもらいました。このことについて荒川先生に報告すると「一筋の誠」を大切にしなさい、という助言と共に大津島にある回天記念館に行きなさいというアドバイスを頂戴しました。

昭和62年5月25日、私は山口県周南市大津島にある旧回天搭乗訓練員の宿舎跡に立てられた記念館を訪れました。徳山港から直行便なら約20分、静かな瀬戸内海の船旅でした。大津島に上陸しますと、とてものどかで明るく周囲が海の島でした。この美しい島で特攻兵器「回天」の発射訓練が行なわれていたとは思えませんでした。港から歩いて10分ほどの少し小高い場所に、回天記念館があります。記念館の門から入口まで、両側に並ぶ石碑は全部で145体あります。その一つ一つに、回天による戦没者145名の方の名前と出身地が記されています。記念館の横には特攻魚雷回天のレプリカがあります。そして訓練基地跡や、回天を運ぶために使われたトンネルが残っていています。記念館には、回天に関する資料や搭乗員の遺品等が展示されていました。

訪れますと、涙が出て止まらなかったのです。こんな悲しい兵器を作る必要があったのか、回天を発案したのは黒木大尉と仁科中尉ですが、二人の若い尉官は、祖国を守りたい一心で回天を考案したのです。生きて返れない兵器ですので、海軍はすぐには採用しなかったのですが、日本の敗戦が続く中、ついに兵器として正式採用しました。「天を回らし、戦局を好転させる」という願いを込めて「回天」という名前の人間魚雷が誕生したのです。

黒木大尉は殉死されて少佐になられました。もう一人の考案者の仁科中尉は、第一回目の出撃で戦死されました。皆さん、戦没者145名の平均年齢は21歳です。平和ぼけしている日本において、毎日普通に生活できていることへの感謝の気持ち、そして、これからも永遠に平和を守り続けなければという気持ちは、すべてこの回天記念館から発して行かなければならないと思いました。恩師の荒川先生はこのことを伝えたかったのです。「一筋の誠」であるならば「ひとかけらの誠」であっても、それは歴史を動かし、国の命運も支えると思います。継続は力です。

その証拠に、昨年、平成22年9月5日(日曜日)に岐阜県下呂市の信貴山に鎮座する楠公社前で、47回目の回天烈士の慰霊祭が厳かに執り行われました。 黒木博司少佐の妹さん、回天搭乗員の方々3名も参加されたと聞いております。



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