高山彦九郎先生について

高山彦九郎先生について
私は戦争を美化しょうとするつもりはありません。しかしながら戦争の悲惨やその体験を語り継ごうとする声が大きく鳴り響く風潮の中で、国難に際して敢然として立ち向かわれた当時の若者たち、政治家・軍人の剛勇の精神、さらに多くの尊い献身について語られることがなくなったことに反発をいだいています。

私たちが享受している戦後の復興・繁栄・今日の平和は、前述の先人たちの愛国と義烈の真心の上に、築かれたものです。尖閣諸島問題・北方領土問題・沖縄の基地問題など国家興亡の岐路に立つ日本において、真に語り継がなければならないものは、彼らが残してくれた「愛国の至誠」「殉国の気魄」ではないでしょうか。

前述のブログで紹介しました人間魚雷の考案者黒木博司少佐は殉死されて「軍神」として崇めていた世論が、一変して黒木少佐のご家族は人間魚雷の考案者の家族として非難を真正面から受けてこられました。

私は民主党による政治の混迷・経済の低迷・道徳の衰退・安全保障の不安やさらに国家の目標を失い、漂流するかのような日本に、蘇る道はあるのかを考えました。それは幕末から明治維新と導いた若き志士たちの歴史から学んだ精神力と大東亜戦争の護国の英霊たちの感謝の気持ちがヒントになると思っています。表層の現象に一喜一憂するのではなく、日本の二千年の歴史にわたって鍛えられた「日本精神」を再び呼び起こすことが必要だと思います。

私は日本の力の根源である「日本精神」について静かに考え、学び、伝えて行きたいと考えています。そのためにブログを書いているのです。本日は、高山彦九郎先生を紹介します。先代が京都に住んでいたときに、そのときは京阪電車の終点が三条駅でした。子供のときに先代に連れられて京都に行くのが楽しみでした。三条駅は二階建ての駅で、二階はレストランになっていましたので、そこで先代からカレーライスを食べさせてもらうのが大好きでした。

当時は駅を出ると、すぐ横に高山彦九郎先生の御所を拝した銅像がありました。通るたびに先代から寛政の三奇人と云われた高山彦九郎先生の話しを聞かされるので、幼いときから高山彦九郎先生のことは知っていました。

今は三条大橋の東詰めの南側に銅像が移転されてしまいました。高山彦九郎先生は群馬県太田市の生まれです。昔でいえば延享4年(1747)5月8日、上野国細谷村の郷士の次男として生まれられました。13歳の時に「太平記」を読み自分の祖先が新田氏と知り勤王の意志を強めた、と言われています。
 明和元年(1764)、18歳で京都に遊学し、多くの学者・公卿に出入りを認められ垂加流の尊王思想を学ばれます。その頃、三条橋上で御所に向かい平伏して

草莽の臣、高山正之

と連呼したり、等持院で足利尊氏の墓碑を鞭で打つなどの奇行が目立ったといわれています。

寛政2年(1790)に江戸に出て水戸を遊歴、藤田幽谷・林子平らと交流し蝦夷地の松前にも足を伸ばされました。寛政5年(1793)九州を遊説中、久留米の知人宅で割腹自決されました。高山彦九郎先生の言動や強い勤王思想のため、危険人物とされ幕府の監視を受けため憤慨しての自決と言われています。その後の幕末の勤王の志士、吉田松陰先生たちに大きな影響を与えた人物として知られています。

寛政3年(1791)、45歳のおりの春<高山彦九郎先生が奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇に拝謁した時の感激を詠った歌に

我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ

は有名です。戦前の愛国百人一首に記載されており、有名な歌です。「わたくし高山彦九郎を一人の人間としてご認識くだされ、天皇さまのお言葉まで賜りますとは嬉しいことです」という意味です。また群馬県太田市に市立の高山彦九郎記念館があります。行かれたときには、必ず高山彦九郎先生といって質問されたりしますと、親切にされます。呼び捨てにしないようにしてください。
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