平沼騏一郎について

平沼騏一郎について
私は政治家の中で平沼赳夫が好きです。脳梗塞を患わなかったならば総理大臣までなられていたと思います。運輸大臣(第70代)、通商産業大臣(第66代)、経済産業大臣(初代・第2代)を歴任されました。平成22年4月、「立ち上がれ日本」を結党されたときに、私は「年寄りの家出」という言葉を言ったばかりに、私の友人には「参議院議員選挙に出てくれ」と頼みに来られたのですが、私のところには、その声すらかかりませんでした。さみしいことです。

平沼赳夫さんという政治家は日本の歴史と伝統を理解され、「日本のあり方」「日本の進み方」などで新尊王攘夷派とは共通点が多いのです。また靖国神社の問題でも共通します。議論するときは私たちと同様に「天皇さま」という言葉を使用されます。それが新尊皇攘夷派と心が通じ合えるところです。私たちが心を許しあえる数少ない政治家です。

平沼赳夫さんといえば、その養父の第35代内閣総理大臣の平沼騏一郎が有名です。歴代内閣総理大臣の中で終生独身を通されたのは平沼騏一郎さんだけではないでしょうか。平沼騏一郎と神社界とは深い信頼関係があります。と言うのも神道や国学を勉強し研究するものにとって、欠かすことの出来ない組織があります。東京都町田市玉川学園に財団法人無窮会というのがそれであります。

大正4年春、明治期での神道・国学分野での大家井上賴囶博士の没後に遺された全蔵書を平沼騏一郎男爵が私財により購入されて、それまで所有していた蔵書と共に寄附し無窮會と名付けて設立したことに始まりました。このように平沼赳夫さんの養父平沼騏一郎は国学や神道の方面にも精通され、禊の大家川面凡児(かわづらぼんじ)とも交流があり、川面流の禊の流れを汲む三重県多気郡明和町ある宗教法人神道大和教・禊の宮の設立にも関わっておられます。

平沼騏一郎は慶応3年(1867)に津山藩士平沼晋の次男として生まれました。長兄、平沼淑郎は東京大学卒業後、岡山県尋常師範学校教諭、教頭などを経て、早稲田大学学長になった人物です。

平沼騏一郎は、明治11年(1878)東京大学予備門に入り、明治21年(1888)東京帝国大学法科大学を首席で卒業して、司法省参事官試補、民事局勤務を命じられ、以後判事になります。明治32年(1899)に東京控訴院検事になってから検事畑を進み、大審院検事、司法省民刑局長、司法省刑事局長、司法次官を歴任し、大正元年(1912)検事総長に出世します。検事時代に欧米に派遣され、法学博士の学位を授けられました。

また「大逆事件」を取り扱った時、有名な話があります。道徳的に目上の人たちに敬語を使うのは当たり前の行為であるとして、幸徳秋水たちに「天皇陛下」という敬語を使うように教えたのです。

 平沼騏一郎の思想の根幹は、天皇が統治の主体で、祭政一致の政治を行うべきことが日本のあるべき姿ということです。したがって美濃部達吉の天皇機関説に反対、無政府主義者や社会主義者は許しがたいものでした。ドイツの独裁思想である国家社会主義や近衛文麿の新体制運動、大政翼賛会の動向なども皇室の廃止につながると危惧しました。

平沼騏一郎の昭和17年(1942)5月19日の語録を見ますと、日本古来からの伝統を確保しながら、外国の美点を採り入れ、新しい国体を構築すると言う考え方が伺えられます。

日本は君主国であると云ふ。君主国なら西洋にもあるでないかと反問される。すると日本は万世一系であると云ふ。さう云ふことならエチオピヤが日本より古いではないかと反駁される。君主は統治権をもつとか、万世一系とか、そんな形式的なことでは国体は明らかにされない。どこに万世一系があるか、皇室と国民との関係を明らかにせねばならぬ。日本で親子の関係は自然であるから誰でも判る。日本の国体もその方面から論じなければならぬ

昭和14年(1939)、平沼騏一郎は首相となります。首相となって日独伊三国同盟を計画しますが、これは共産主義の台頭を防ぐためでした。しかし平沼騏一郎はドイツがソ連と不可侵条約を締結したために内閣総辞職を断行します。

平沼騏一郎という人物は2度も暗殺されて助かった人物です。昭和16年(1941)8月14日、平沼騏一郎は西大久保の自宅で右翼団体勤王まことむすびから狙撃されます。体内に弾丸6発を被弾する重傷だったのですが一命をとりとめました。理由はグルー米国務長官代理に働きかけて大東亜戦争をくい止めようとしたためでありました。

また昭和20年(1945)8月15日、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として、横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、自宅を焼き討ちされました(宮城事件)。その理由はポツダム宣言受諾に賛成したからでした。

大審院長、司法大臣、枢密院議長、内閣総理大臣を歴任し、男爵の爵位を授けられた平沼騏一郎は極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁錮刑になりました。昭和2 7 年(1952)騏一郎は85歳で生涯を閉じます。

生涯独身を通された平沼騏一郎元首相のもとで、平沼赳夫衆議院議員は生まれたときから、跡継ぎとして養子入りするのに、お父さん一家全員で養子入りされています。



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