取り戻せ「日本の誇り」

取り戻せ「日本の誇り」

最近、「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり」、この一句で有名な武士道の精髄を表す「葉隠」を読んでいます。「葉隠」は、佐賀鍋島藩士・山本常朝(つねとも)(1659-1719)の談話を書き留めた書です。常朝は、9歳で藩主鍋島光茂に仕え、以来、主君の側近くに勤めました。主君が死ぬと、出家して隠棲しました。その彼のもとを訪れた若い藩士、田代陣基に、老齢の常朝は武士の心得を語りました。これをまとめたものが「葉隠」です。

三島由紀夫先生とお会いしたのは、森田必勝先輩が、楯の会で活躍されていた頃でした。最近、三島先生が昭和45年11月25日に自決される3年前の昭和42年9月出版された「葉隠入門」(光文社)と比較して読みますと、本来の「葉隠」と違う「死生観」を感じ取りました。

三島先生は生前、「憂国」短編・「十日の菊」戯曲・「英霊の聲」短編など、二・二六事件に深い関心を寄せておられました。特に「英霊の聲」は古神道の奥義、「顕斎の法」で、霊媒と審神者(さにわ)で行われる帰神(かむがかり)の会に出席され、三島先生は「終生忘れることのできない感銘を受けた」と言われました。石笛(いわぶえ)の厳粛なる響きをもって始まり、英霊たちの声が聞こえてくる様が「英霊の聲」に書かれています。

「英霊の聲」の中に青年将校・磯部浅一陸軍一等主計と思われる霊が降臨し、逆臣として銃殺された屈辱と怨念が語り尽くされています。その思いが「などてすめろぎは人間となりたまひし」として語られ、あまりに強い怨念の霊力を受け止めたために、霊媒師の青年・川崎重男が息をひき取るところで物語は終わります。

自決された三島先生と森田さんは二・二六事件を擁護しておられ、憂国の決起であり、「国体」を護持するための決起で私利私欲のためではなく救国の維新だと位置づけられていました。決起し失敗に終わりましたが、彼らは最後まで「大御心にご判断を仰ぐ」つまり「大御心を待つ」ことに重きを置いた決起であると考えておられました。

三島先生や森田さんもそうですが、大東亜戦争の敗戦自体はそんなに問題視されているわけではなく、それによって「大和魂」や「日本人の誇り」が無くなったことを問題とされていたのです。

我が国は神代の時代から、 天皇を上に頂いて、君民一体、天皇は国民をわが子の ように慈しまれ、国民は天皇を父のように慕って、統一国家を為して来ました。これが日本の国がら、「国体」です。それを護持してきたのが「日本人の誇り」です。

三島先生や森田さんは「国を護る」と言うことは、命を賭して、「国体」を護ろうとすることだったのです。昭和45年11月25日、市ケ谷駐屯地での自決は、それを行動で示したものです。生前に三島先生は「未来は信じないが後世は信ずる」と言われていました。二・二六事件の将校と同じ、「歴史の判断」と「大御心を待つ」という所に意義があったと思います。

三島由紀夫先生の「葉隠入門」のなかに次の文句があります。

人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれすくなかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。

ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。

今でも三島先生の檄文を読みますと涙が流れてしまいます。日本男児には、命より大事なものを護らなければいけないという使命があります。檄文の通り、「日本の誇り」を取り戻すために努力しています。




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