テレビ小説「 花子とアン 」に感じたところ

テレビ小説「 花子とアン 」に感じたところ
平成26年度前期連続テレビ小説「 花子とアン 」が朝ドラの中の葉山蓮子のモデルは柳原白蓮です。この柳原白蓮とは少なからず関係があります。大正10年11月、「白蓮事件」という世間を騒がせる騒動がおきました。その渦中にあったのが柳原白蓮、宮崎龍介だったのです。

かつて、宮崎滔天先生はが浪曲師として九州興行をしたとき、炭鉱経営で成功した伊藤伝右衛門に頭を下げて祝儀をもらっていますか、その伊藤伝右衛門の妻が柳原白蓮でした。なんと、宮崎滔天の長男龍介はこの柳原白蓮と駆け落ちしたのです。

宮崎滔天先生はアジア解放という大志を抱いて、生涯、大アジア主義を貫いた人物です。日本に亡命してきた孫文先生を献身的に支え、応援し、辛亥革命の成功に導いた最大の功労者は宮崎滔天先生です。

米国に在住していた華僑よる資金援助も大きいものがありましたが、それ以上に10年に及んだ孫文先生の日本での亡命生活の苦難な時代を支えたのが宮崎滔天先生です。日中友好の原点がここにあると思います。宮崎滔天先生は一時、アジア主義運動に挫折され、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となられたのです。

この宮崎滔天先生に灰皿を投げつけて怪我をさせた人物がいます。「黒龍会」の内田良平先生です。その理由を説明します。当時、中村弥六という人物がいました。犬養毅の派閥に属する代議士であり、深川の材木商でもありました。宮崎滔天先生が南洋材を輸入しようとしたものの売却先がみつからず困っておられました。それをみかねて犬養先生が紹介したのが中村弥六でした。この中村が宮崎滔天先生の南洋材を買い取ったのです。

ちょうどその頃、日本に亡命中の孫文先生のことにフィリピン独立運動の中心人物アギナルド将軍の使者ポンセが訪ねてきたのです。フィリピン独立運動を援助するための武器弾薬の支援を求めてきたのでした。当時のフィリピンはアメリカの植民地でした。

孫文先生は宮崎滔天先生に相談したところ、玄洋社の初代社長である平岡浩太郎に捻出させることになりました。資金を受けて宮崎滔天先生は武器弾薬の入手を代議士であった中村弥六を仲介者としたのでした。明治32年(1899)7月19日、武器弾薬を満載した布引丸が長崎港からフィリピンに向けて出港しました。しかし同月21日、布引丸は暴風のため東シナ海の寧波(ニンポー)沖で沈没しました。

沈没した布引丸には武器弾薬は積み込まれていなかったのです。それというのも犬養毅の派閥の中村弥六による裏切りが原因でした。中村弥六は武器弾薬をアギナルド将軍に供与しないようにしたのでした。

孫文先生はアギナルド将軍に対しての信頼も失ってしまいました。この中村弥六の裏切りを知った内田良平先生は調達責任者である宮崎滔天先生の責任をせめ、中村弥六の暗殺を迫ったのだったのです。ところが宮崎滔天先生は何の説明もしなかったために、内田良平先生の怒りをかってしまい、内田良平先生は宮崎滔天先生の顔面をめがけて灰皿を投げられたのです。宮崎滔天先生は眉間に受ける羽目となりました。それ以後、両先生の関係は冷えきってしまいました。
黒龍会の内田良平先生の門下生が坪井一夫先生でした。関西支部長が吉田益三氏が昭和6年11月に結党されたのが大日本生産党でした。坪井先生も結党に参加されています。

坪井一夫先生が資金援助しなければ昭和43年結成された民族派学生組織、全国学生自治体連絡協議会(全国学協)は存在しなかったと思いますし、鈴木邦男さんの新右翼「一水会」も存在しません。奈良県吉野郡にある旅館吉野舘での坪井先生の勉強会に参加した連中が今や還暦を過ぎていまだに現役として活動しています。

私は幼い頃から薫陶を受けいますので、坪井先生の怒られるときには、灰皿は陶器製のものではなく、アルミ製のかるい灰皿を置くようにしていました。内田良平先生譲りの灰皿投げを何十回と見ていますので、アルミ製の灰皿は粉砕することなく怪我もないので安心でした。坪井先生のユニークな点は楯の会の事件を取り扱った裁判長を訴追したところです。



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。