「気枯れ」について

「気枯れ」について
通常、神社のすべての行事は、「祓い」から始まります。この「祓い」というのは「つみけがれ」を祓うということを指します。「つみけがれ」の「つみ」とは、犯罪などの「罪」という意味ではありません。神さまから頂戴した人間本来のすばらしい姿を包み隠してしまうことを指しています。「つみ」は「包む身」を意味します。

それでは「けがれ」というのは汚れたとか汚いという意味ではなく、神さまから頂戴した「神気」あるいは「神霊」が枯れてしまった状態、「気枯れ」を意味します。神職でありながら鍼灸師・柔道整復師として鍼灸整骨院の院長も兼ねていますので、「気枯れ」を起こす原因を東洋医学で説明し記述します。

「気枯れ」とは何かを東洋医学から分析します。中国の南宋1161年の陳言、字(あざな)は無択、南宋處州青田(今の浙江省青田)鶴渓の人だと言われています。詳しい生い立ちは不明ですが、臨床手腕は抜群で腕のいい医者だったのです。その陳言が著わしたのが、「三因極一病証方論」(俗に「三因方」)です。

それは病因、つまり原因には三つの要因があり、それを三因としたのです。内因・外因・不内外因の三つを言います。内因とは七情、つまり怒・喜・憂・思・悲・恐・驚の七つの感情によって、臓腑に鬱滞が起こり全身に現れるというものです。

外因は風・熱・湿・乾・寒・火(40度ぐらいの気温のとき) の気象状態が原因となって病が起きると考えられていたのです。不内外因は天災や人災など予期しない事故が原因となって病気になることが原因としています。

その内因が「気枯れ」が原因となり病気が起きる、と陳言は考えたのです。

「怒」
日常で、「怒」という感情を感じることは、宮司をしていても、私はほぼ毎日あります。東洋医学では「怒りは気が上がる」といいます。私も「怒」という感情を感じた時、「頭に来た」とか言葉に出して言います。要するに、体の上部に「気」が来る、つまり上にのぼせる、ということを言っているのです。

東洋医学では、怒ってばかりいる人は「気」が頭部で渋滞を起こすので、頭部の血行が悪く眩暈になったり、髪の毛が抜けハゲやすいと言われています。しかし怒り過ぎも「気枯れ」の原因にもなりますが、我慢しすぎも「気枯れ」の原因にもなると思います。「怒」が続くと、祝詞を奏上しましても、間違って祝詞を奏上することが多いです。神さまの神饌も乱雑になってしまいます。境内の清掃も乱雑です。

「喜」
「喜」という感情は、あればあるほどよいと思われますが、東洋医学では、一見プラスに思えますが、過剰になったり、過少になったりすれば病気を起こす、と考えます。「喜」が過剰になったりしますと、緊張感と注意力が散漫になり事故の原因にもなります。神事に適当な緊張感がないと、祭式の作法に手違いが生じます。

要するに楽しいことばかりの遊びすぎが「気枯れ」を起こすのです。東洋医学では「喜」は「気を緩める」と言います。「ピシッと緊張する」時も必要ですが、緊張ばかりでは精神的、肉体的にも参ってしまいます。正常範囲の「喜」は「気枯れ」を起こさないことです。

「思」
「思」という感情は「くよくよと思いつめる」ことです。東洋医学では胃腸の働きに悪影響を与え、食欲不振やお腹が張る、といった、様々な症状を出すと考えています。また東洋医学では「思えば気が結す」といいます。思い悩んだ状態が長く続くと「気枯れ」ます。私も経験がありますが、社殿の修復時、ご寄進を賜らないと工事を中断しなければならないと考えると、不眠になり朝拝・夕拝時に神さまに対して「ご寄進があつまりますように」とお祈りしてしまいます。

そのときに先代から氏子が安心して暮らせるようにお祈りがあるので私見をはさんではならぬ、と言われていた言葉を思い出して、普段より熱心に氏子地域が平和でありますようにと、お祈りしますと不思議にご寄進が集まりだしたことがありました。

「悲」と「憂」
「悲しむ」「憂う」と言うと、人生において、愛する人との病気や死別、将来に希望を持てない状態など、出来ればない方がいいと思います。死別などは避けられないものです。東洋医学では「悲しめば気が消ゆ。」と言われています。神道で言えば最大の「気枯れ」です。神道では忌中が50日間と言うことになっていますが、「気枯れ」状態も50日ぐらいで治まるということでしょう。

「恐」と「驚」
「恐」というのは皆さんがよくご存じの「恐怖感」のことです。生活、人生の様々な場面で感じることがあると思います。余談ですが、小児に多いのですが、お父さんに怒られてビビって、「おしっこチビッた」というのも、まさに「恐」という感情によっておこされるものです。東洋医学では「恐れれば気が下がる」とあります。

実際、私は何回も経験しています。テレビのドラマの中で、あまりの恐怖に地べたにへたり込んだりするシーンがありますが、それは本当のことです。極度の恐怖感は、上半身の気をグーッと下げてしまい、下半身に力が入らなくなるのです。東日本大震災のときも恐怖のために動けなくなった、と言うお話しを聞くたびに「恐れれば気が下がる」と言うのが理解できます。

そのような状態で祝詞を上げたのが先代です。大東亜戦争のときに、B29の空襲があり、その爆音を聞きながら空襲の被害がないようにと「大祓詞」を奏上していたのですが、空襲警報が終わった後、腰が抜けて立てなかったと言っていました。「恐れれば気が下がる」状態です。

私は信仰に生きるものは、邪念が入ると負けだと思っています。特に祝詞を奏上するときには、冷静・沈着、何事が起きても動じない無の心境がいるのです。これがなかなかできないのですが。「恐」という感情は、自分がしでかした過去のトラウマによって徐々に蓄積されたものであると思います。

「驚」は一過性のものです。長続きするものではありません。東洋医学では「驚けば気が乱れる」と言われています。鎮魂業法を行うと、いろいろな形で自分自身が試されます。特に白川流の鎮魂業法は恐いものです。

いろいろな声やいろいろな現象が現れます。それにいちいちと驚いていては修行になりません。驚いたとき、ドキドキしたりします。訳のわからない行動や言動もしたりします。人体の正常な状態がないときに「気枯れ」状態となります。正常に働かないからなるのです。それが持続すれば鎮魂業法は失敗です。今日のこのときに死んでも構わない心の平静が必要です。それができなけれはせ鎮魂業法はできません。しかし一度死線をさまよいますと死への恐怖がなくなります。それと同時に感謝の気持ちが湧き出てきます。

ところで宮崎駿監督の「風立ちぬ」の映画を観れば、菜穂子さんの「無事」であるということがどれほど尊いことかを理解することができです。毎日何事もなく無事で、物事が順調であったりすると当たり前のように感じてしまうことがありますから、ハプニングのときに「気枯れ」状態になってしまうのです。

「気枯れ」状態は知らず知らずのうちに私たち人間のからだに付いて、様々なトラブルを引き起こすわけです。こらはすべて「我欲」や「理屈」から生じます。それを防ぐには、神さま、ご先祖さまに感謝する生活を送ることが一番大切なことだと思います。東洋医学の怒・喜・憂・思・悲・恐・驚の七つの感情は「面倒だ」「嫌だな」ということに直面したときな起こります。ストレスを楽しんでやるように努めてみてはいかがでしょうか。

神道では「中今」という言葉がありますが、中今とは「今この瞬間に集中して全力で生きる」という意味です。しかし私は「今の瞬間楽しんで生きる」と言うのが本来の意味だと思います。「今この瞬間に集中して全力で生きる」には、楽しんでやることによって容易にその状態になると思います。












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