残る桜も散る桜

 毎年3月下旬、靖国神社は大変な人出となります。美しい桜を見に来ているのです。靖国神社と千鳥が淵には30万人前後のひとたちが花見に来ます。靖国神社が混むのは、この桜の季節と、8月15日の終戦記念日くらいしかありません。

このように古くから日本人は桜をこよなく愛しています。それは日本人の死生観に通ずるところがあるからだと思います。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶で歌人の良寛の辞世の句といわれている「散る桜残る桜も散る桜」と言うのがあります。ひとたび「生」を受けてこの世に人は誕生しますが、それと同時「死」も与えられます。生まれた所も育つ環境も、人はそれぞれ違っていますが、幼く死ぬものもあれば長寿を全うする人生もあります。しかし何時の日か死ぬときがきます。

ところで「花は桜木、人は武士」と言う言葉があります。この言葉は「一休さん」で知られる一休宗純(そうじゅん)、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧の遺した言葉です。

花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの

花では桜の花が最も美しく、人はぱっと咲いてぱっと散る桜のように、死に際の潔く美しい武士が最もすぐれていることをいった言葉です。それが江戸時代に武士道が大成し「桜」と「大和魂」が結びついてしまいます。特に江戸時代の国学者本居宣長先生の短歌を記載します。

   敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花

大和心を一言で言えばどういうものか、私は直ちに朝日に輝き映じる山桜花ようなものだと答えるでしょう、という意味です。

70年前に「なでしこ隊」という名前の特攻隊員に掃除・洗濯・給仕・裁縫などの世話をし、彼らの「死への出撃」を笑顔で見送ることを目的とした女学生の勤労奉仕隊がありました。
昭和20年(1945)3月27日から4月18日までの23日間、知覧基地で特攻隊の奉仕を命じられたのが知覧高等女学校3年生の少女たちでした。校章がなでしこの花であったことから「なでしこ隊」と呼ばれました。

見送って3時間後には死んで行く特攻隊の若者を次々と見送り続けるのは、当時15歳の少女たちにとって、大変に辛く悲しいことだったでしょう。下記の写真を見ますと、なでしこ隊の女学生が桜の一枝を手に持って特攻隊員を見送っています。

私は今年で65歳になります。ポツダム宣言受諾して70年目を迎えます。三島由紀夫先生や森田必勝さんが自決して45年目を迎えます。世間ではおじいちゃんと呼ばれる年齢となりました。今でも三島先生や森田さんを忘れたことはありません。三島先生が自決されたときは45歳、森田さんは25歳、あれから45年も経つのに何も出来ていない自分が恥ずかしく思います。松浦博(持丸博)さん、阿部勉さん、三浦重周さん、吉田良二さん等、多くの同志達は地下に眠ってしまいました。

靖国神社の桜は満開でも、私の心は晴れません。特攻隊員を見送った「なでしこ隊」の生き残りの人たちも私と同じ思いがあると思います。「国破れても国は滅びず」という信念から、日本には決して忘れてはいけない事実があり、決して風化させてはいけない過去の歴史があり、それらを若い世代に語り続けなければいけない使命の為に生きてきましたが、いよいよ「残る桜も散る桜」のときが来たと思う今日この頃です。
なでしこ隊.jpg
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