両陛下、パラオの慰霊碑に供花

両陛下、パラオの慰霊碑に供花
天皇、皇后両陛下は4月8日午前、羽田空港から民間のチャーター機でパラオ共和国に向けて出発されました。天皇陛下はパラオ共和国訪問にあたり、羽田空港でお言葉を述べられました。前文産経新聞から記載します。

 本年は戦後七十年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。

 私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。

 パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和十年頃には、島民の数より多い五万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。

 終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。

 この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。
                              
 この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり、パラオ国大統領御夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。

 終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。
                              以上産経新聞から抜粋
              
戦後70年の節目にあたり、両陛下の強い思いから実現した慰霊のための訪問です。9日には大東亜戦争で日米合わせて約1万2000人が犠牲になったパラオのペリリュー島を訪れられ日本政府が建てた慰霊碑「西太平洋戦没者の碑」に白菊の花を丁寧に手向け、さらに10秒以上深く頭を下げ、黙礼されました。

また天皇陛下と皇后陛下はペリリュー島の生還者で元海軍上等水兵の土田喜代一さん(95)やアンガウル島で重傷を負った元陸軍2等兵の倉田洋二さん(88)、遺族や遺骨収集の関係者らの出迎えを受け、両陛下は一人一人の話に耳を傾けられました。

ところでペリリュー島の戦いは、昭和19年9月15日から11月25日まで行われました。島に押し寄せたアメリカ軍は戦車117両を擁する総員4万8740名で圧倒的な部隊でした。ところが迎え撃つ中川州男大佐率いる日本軍は1万500名で火力の装備も劣っており、食料や弾薬の補給もなく玉砕するのは当たり前のことでした。当初、アメリカ軍と数日で占領する予定でした。それが2ヶ月半もかかってしまいました。

それというのも中川州男大佐の作戦で要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いたことによります。中川州男大佐が見せたゲリラ的な戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになりました。

昭和19年11月24日にはついに兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐は拳銃で自決されました。村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。11月25日の早朝、根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われ勇戦敢闘して玉砕しました。

11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなりました。上陸開始から2ヵ月半が経過しての事でした。

日本の国旗を元にして出来たバラオの国旗とペリリュー島の慰霊塔

パラオ島の国旗.png
パラオ慰霊碑.jpg









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