門跡と修験道

門跡と修験道

門跡(もんせき、もんぜき)とは、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことです。悪い言い方をすれば、門跡とは家督を相続する当てがなく、行き場のない皇子・皇族・公家の次男坊以下の子弟などが僧侶になり、法統を守り伝える寺院のことだと言えます。江戸時代には

法親王(出家した親王)が居住する宮門跡
摂政・関白家の子弟が居住するのが摂家門跡
門跡に準ずる寺院の準門跡 
皇女たちの場合には尼門跡

の区別がありましたが、明治4年(1871) にすべての門跡制度は、公的に廃止されました。
不思議なことに、それ以後も門跡寺院 などの表現は平成の時代まで使われています。私の義兄は奈良県吉野郡下北山村前鬼山に住んでおり、役の行者に使えた前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)の子孫です。前鬼・後鬼は、修験道の開祖である役小角 (えんのおづね)、通称役の行者が従えていたとされる夫婦の鬼のことです。前鬼が夫、後鬼が妻です。役小角を表した彫像や絵画には、しばしば前鬼と後鬼が左右に従う形で表わされていいます。役小角よりは一回り小さい小鬼の姿をしていることが多いと思います。

修験道の霊峰である大台ケ原の北側、現在の下北山村前鬼に住んでおり、この地には2人のものとされる墓もあります。前鬼と後鬼の5人の子は、五鬼(ごき)または五坊(ごぼう)と呼ばれ、下北山村前鬼で修行者のための宿坊を開き、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号としました。
またそれぞれ、五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)の5家の祖となりました。5家は互いに婚姻関係を持ちながら宿坊を続け、5家の男子は代々名前に義の文字を用いていました。

ただし、明治初めの廃仏毀釈、特に修験道禁止令により修験道が衰退すると、五鬼熊、五鬼上、五鬼童の3家は廃業し里に出てしまいました、その後、五鬼継家も廃業しました。義兄の小仲坊の五鬼助家のみが今も宿坊を開き、61代目の五鬼助義之が当主となっています。

五鬼助家は修験道の本家であります。しかし京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山の寺院聖護院(しょうごいん)に属する形になっています。その理由は聖護院が門跡寺院になったためです。

聖護院は後白河天皇(1156-58)の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺されてより後、 明治維新まで37代門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となられた皇室と関係の深い寺院となったからです。そのことから江戸時代後期には2度にわたり仮皇居となったこともあります。

本来なら五鬼助家が聖護院より歴史が古く、役小角の初代の弟子に当たる家柄ですので、本山修験道を名乗るべきだと義兄に言うのですが、義兄は人がよすぎて欲がありません。それと京都より地の利が悪く、代々尊王の志が篤く、お上(天皇)の命には絶対服従の家系ですので、聖護院が門跡寺院になったときから五つの家の大峰山前鬼坊は、その配下になってしまいました。それはそれでよいのですが、明治初めの門跡制度が廃止となり、廃仏毀釈、特に修験道禁止令が出されたのを絶好の機会と捉え、私ならば聖護院から独立し、鎮護国家・聖寿安泰を掲げて新しい形の宗教を起していたと思います。

また私なら戦後、すぐにでも本山修験道発祥の地として、宗教法人を創設し、修験道の儀式である護摩行を取り入れた現代風の修験道を確立してきたかもしれません。





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