初代藩主保科正之の「日守木」

初代藩主保科正之の「日守木」
私のご先祖は新撰組に殺害されていますので、お参りする気持ちにはなれませんが、意外なことに新撰組局長近藤勇の墓が福島県会津若松市東山町石山天寧208にある曹洞宗寺院天寧寺 (てんねいじ)にあります。新撰組副局長土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したといいます。毎年、4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭が開催されます。
 
ところで会津松平家廟所は会津若松市の東山温泉の入口にあります。山麓の鬱蒼とした森のなかに、巨大な亀の背に乗った松平家代々の碑石が立ち建ち並んでいます。江戸時代には300余の大名がいましたが、純然たる神道で葬式を行い神道で先祖を祀りしていたのは会津藩だけです。これは藩祖保科正之以来、代々神道を重んじており、現在まで続いています。

初代藩主保科正之は霊号を「土津」(はにつ)と言います。これは吉田神道の吉田家から授かったものです。これは寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられ、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来しています。吉川神道の奥義は、吉田神道の極秘伝でもあります。代々の白川神道の門人である私が解説するのも気が引けるのですが、これは「神籬磐境之伝」(ひもろぎいわさかのでん)というものです。

「神籬磐境之伝」は「霊魂」とは何であり、死んだら「霊魂」はどこへ行くのか、人ひとりひとりの、生死の根本に関わる問題を神学上の根本的問題として究明したものです。当時、「神籬磐境之伝」を授かることは吉川神道の後継者であるとも言われます。また吉田神道の継承者、と言うことも出来ます。

吉川惟足から保科正之は「神籬」とは「日守木」であり、日嗣の君を守り奉ることであり、「磐境」は、その心の磐石のごとく固い信念を象徴することだと教えられたのです。即ち「神籬磐境之伝」は神社に神を祭ることの意味は、皇統守護の一念にきわまる、と説いているのです。保科正之は「神籬磐境之伝」を授けられてから翌年の寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去し、遺言通り見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られました。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっています。

 我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん

そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっています。創建された神社は豪華絢爛な様式で日光東照宮にも比されたと言われています。惜しくも戊辰戦争の戦火によって消失してしまいましたが、明治13年(1880年)に再建され現在に至っています。

私は保科正之の実行した政策は現在でも通ずると思います。
1.殉死の禁止2.税制改革と減税実施3.飢餓対策の社倉制度4.老人対策については90歳以上の高齢者へ扶持米の支給5.救急医療制度の創設

不幸にして子孫の松平容保は文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任します。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取っていました。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した「会津家訓十五箇条」の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意しました。そして「日守木」という皇統守護の精神を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、幕府と運命を共にしました。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。