奈良の大仏さん

奈良の大仏さん
読売新聞の報道から掲載します。
奈良市の東大寺大仏殿で7日、本尊の盧舎那仏坐像(国宝、高さ約15メートル)に積もったほこりを払う、年に1度の「お身拭い」が行われた。

 筒井寛昭別当らが法要を営んだ後、白装束姿の僧侶や信徒ら約160人が午前7時過ぎに作業を開始。天井からつるしたかごに乗って大仏の手のひらや膝に登り、はたきで払ったり、布巾でふいたりして、2時間半かけて全身を清めた。

現在は毎年行われていますが、以前は東大寺の住職の任期中に一度行われる程度でした。昭和39年から「お身拭い」は8月7日に日を定められてて毎年実施されるようになったのです。

ところで東大寺盧舎那仏像は、東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像は一般に関西地方では「奈良の大仏さん」として知られています。

聖武天皇の発願で天平17年(745)に制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会(魂入れの儀式)が行われました。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部です。

藤原京から平城京へ遷都されたのは元明天皇(天智天皇の娘)の710年でした。しかし、その奈良の都を数々の国難が襲うことになります。そのなかでも天然痘が猛威を振るい、政権を掌握していた藤原四兄弟(いずれも藤原不比等の子)が相次いで病没しました。それに加えて天災地変も続き、社会不安は頂点に達していました。

西暦740年からの約5年間、災いを避けるために皇宮は奈良の地を離れ、各地を転々としました。741年には各地方に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔を発しましたが、一向に好転しません。ますます動揺する人心を安んじるため、聖武天皇は745年、再び奈良の地に還都するとともに、全国の総国分寺としての東大寺建立と、唐土にもあると聞く巨大な盧舎那佛像(大仏)の造立を決意されたのです。

大仏の鋳造は困難を極め、7回の失敗を重ねました。百済の帰化人・国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)の指揮のもと、8回目でようやく成功しました。

 天平勝宝4年、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇も列席して、大佛開眼法会が盛大に執り行われました。743年に、紫香楽宮(しがらきのみや)で最初の大佛造立の詔を発してから、すでに10年の歳月を数えていました。東大寺の大建築が落成し全ての事業が完成するのは、さらに31年後の783年である。延べ260万人が工事に関わったとされています。開眼法会の導師をつとめた菩提僊那(ぼだいせんな)は、インド出身の渡来僧でした。 
おみぬぐい.jpg


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