古代では春祭・秋祭・冬祭があった。

古代では春祭・秋祭・冬祭があった。
世の中、お正月休みやお盆休みの真っ只中でも私をはじめ神職は普通に働いています。日曜日に休日をいただける神職はほとんどいないと思います。神職は普段の日の仏滅の日が休みとなることが多いと思います。神社に奉職時代には、「泊まり」という宿直がありました。またお正月の元旦祭の際には12月31日から1月1日まで徹夜でご奉仕するのが当たり前でした。

さて、この時期は秋祭の時期でもあるのですが、神社に勤めていたときは秋祭の前日から「泊まり」があり潔斎していました。ところで古代において、大きなお社ではなく一般の神社では、1年間の四季の祭りといえば、秋祭・冬祭・春祭しかなかったと言われております。それも秋祭・冬祭・春祭は、古代では一晩のうちにすべて行われていました。大晦日の宵から秋祭を執り行い、引き続き冬祭を行い、元旦の朝が明けると春祭を行ったのだそうです。

折口信夫先生は「あき」・「ふゆ」・「はる」がもつ意味が、中国より暦が伝わって四季の秋・冬・春とは違う意味を持っていたと言われています。またあき・ふゆ・はるがもつ意味も、中国より暦が伝わってくる前までは、いまのような四季の秋・冬・春とは違う意味だったと折口先生は説明されています。

それでは四季の秋・冬・春とは違う意味だったことについて記します。その年の収穫物を神に捧げ報告する刈上げ祭りが秋祭です。収穫時の空の色が「あきらか」(清明)な時期であることから「あき」という語源ができたと言われていますが、やはり穀物などの収穫が「飽き満ちる(あきみちる)」季節であることから「秋」になったのです。

神さまに収穫の報告の秋祭が終わりますと、引き続き「冬祭」を行います。マレビト(お客さんという意味)である常世神が訪れて「鎮魂祭」を執り行うのが冬祭です。この冬祭の鎮魂は天子の物忌みの期間でもあり、1年間を通しての古い「霊魂」の上に新しい「霊魂」を天子に付着させるために鎮魂祭、冬祭があるのです。天子の霊魂(みたま)が「ふゆる」(増える)が転じて「冬」という言葉になったのです。

そして、夜が明けるとともに天子は物忌みから開けて、高御座にのぼり、祝詞を宣られます。この祝詞のことほぎ=言祝によって、その年の豊作や健康をあらかじめ祝福して心が「晴れる」が転じて春という言葉になったのです。要するにこれが春祭りです。

このように大晦日の夜から元旦の朝にかけて行われていた秋祭・冬祭・春祭ですが次第に中国の暦の影響を受けた分割して行われるようになりました。最初に分かれたのが10月に行われる秋祭です。分かれると祭りの形式がだんだんと複雑になります。そのことから今度は冬祭ですが、鎮魂が忘れられ正月の元旦祭と名前を代えてしまいます。次に春祭が分かれます。五穀豊穣を祈願する2月の祈年祭や3月の春祭になってしまいました。夏祭ができたのは、ずっとあとの時代です。

鶴見神社のお祭りも、祈年祭・夏祭・秋祭・元旦祭とありますが、祈年祭は神職だけで執り行いますので氏子地域では知られていません。春祭の形式として、春を迎えるための春祭が節分祭になってしまっています。このようなお祭りの形式になったのは江戸時代からです。





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