ユダヤ人を救った樋口季一郎中将

ユダヤ人を救った樋口季一郎中将
私が尊敬している軍人に石原莞爾陸軍中将と樋口季一郎(ひぐち きいちろう)中将がおられます。平成26年8月9日、テレビ東京の「ありえへん世界」で、樋口季一郎中将は数千人のユダヤ人の命を救った偉大な日本人として放送されました。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に外交官として赴任していた杉原千畝(すぎはらちうね)は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状を見かねて外務省からの訓令を無視して、大量のビザを発給し、およそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことは知られています。

それに比して未だ充分に知られていないのが樋口季一郎中将です。樋口季一郎中将は明治21年(1888)8月20日、現在の兵庫県南あわじ市阿万上町で誕生されました。父奥濱久八、母まつの5人兄弟の長男として生まれられました。11歳の時両親が離婚し、母まつの阿萬家に引き取られ、11歳の時両親が離婚し、母まつの阿萬家に引き取られました。

18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(21期)に進み優秀な成績で卒業され、そのときの同期が石原莞爾でした。陸軍大学校(30期)を卒業後、主に満州に赴任され、大正14年(1925)5月、駐在武官としてポーランドにも赴任されています。

昭和12年(1937)8月2日 、少将に昇進されハルピン特務機関長として赴任されます。
その年の12月、樋口特務機関長のところにハルピンで病院を経営する内科医でハルピンユダヤ人協会の会長だった樋口はアブラハム・カウフマン博士が訪問します。博士の要件はユダヤ人を迫害するナチス・ドイツの暴挙と非道を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催を許可してほしいとのことでした。

樋口はナチスの非人道的なやり方に不満を持っていたので、これを即決して許可を与えました。昭和12年12月26日、3日間の予定で第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。
樋口はゲストとして招かれ、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツに対して憚ることなく、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と批判する演説を行い万雷の拍手を浴びたのです。

その3ヵ月後の昭和13年(1938)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連と満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃れてきたのです。ユダヤ人の人数は増え続け1万人とも2万人とも言われています。

彼らは希望する亡命先に到達するためには満州国を通り上海に行かなければなりません。満州国の外交部が入国ピザを許可しないために、オトポール駅で足止めされていたのです。カウフマン博士の要請もあり、やせ細ったユダヤ人の惨状に見かねて樋口は、彼らに食料と衣類の配給を行ったのです。樋口は満州鉄道の松岡洋右総裁や満州国外交部に働きかけました。その結果、5日間のビザを発行させ、ビザなしで受け容れてくれる上海疎開に入り、そこから米国やカナダ、オーストラリアへ逃れることが出来ました。その人数は2万人にとも言われています。

以上がオトポール駅事件と言われるものです。その後、このことを知ったナチス・ドイツのリッべントロップ外相はオットー駐日大使を通じて抗議文を出しています。これに対して樋口は早速関東軍司令部に出頭し、当時、参謀長だった東條英機を説明に行きました。樋口は処分を覚悟して出向き、日本はドイツの属国ではなく、満州国も属国でもない、非人道的な行いには正義を持って対応する、と言うようなことを述べました。東條英機は彼を処分せずに、参謀本部第二部長へと栄転させました。ハルピンを出発する際には、数千人のユダヤ人が見送ったと言われています。

大東亜戦争中の彼は昭和17年(1942)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍の司令官となり北東太平洋陸軍作戦を指揮します。当時の海軍は同年6月5日のミッドウェー海戦で空母4隻を失い、制海権と制空権の両方を失い壊滅的な状況でした。もともと海軍主導でアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島を占領したわけですが、ミッドウェー海戦の敗北で弾薬や食糧などの補給が出来なくなったのです。

米軍が奪い返すのは時間の問題となったわけですが、海軍には守備隊の増援を図りたい樋口の意見を聞き入れることが出来ない状態でした。昭和18年(1943)5月12日、米軍の上陸が開始され、樋口は増援も救援も出来ず、山崎保代陸軍大佐の指揮するアッツ島守備隊2650名を玉砕させてしまいました。

その悔しさを樋口はキスカ島撤退を指揮しました。彼は大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めてすべての武器を海中投棄をさせたのです。昭和18年(1943)7月29日、キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれています。

敗戦後にも、樋口の活躍がありました。無条件降伏の3日後、どさくさにソ連は北海道あたりまでを侵略し日本の分断化を狙ってきました。侵攻してきたソ連軍に対し樋口が指揮する北部軍は占守島、樺太で徹底して戦い、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えソ連軍の北海道上陸を食い止めたのです。

そのためスターリンは当時、札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名しました。このことをいち早く知った世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、欧米のユダヤ人金融家や石油会社の経営者などロビー活動を行いました。その結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護させたのです。
この偉大な英雄は昭和45年(1970)10月11日、波乱に満ちた生涯を終えられました。

ユダヤ民族基金という団体があります。その施設には永久保存されているゴールデンブック(黄金の碑)というのがあります。ゴールデンブックには、1948年イスラエル建国に際して大きな貢献をした人が記載されています。このゴールデンブックに「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」の名が刻まれているそうです。



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